地獄の底でふたりきり
1.鬼が出るか蛇が出るか
目が覚めると、もう一人の自分と目が合った。
大きな鏡の向こう側から、見慣れた青い目が無様に鏡面の上で丸まった自身の顔を、どこかぼんやりとした様子で見つめている。
まばたきを数度繰り返しながら、ゆっくりと倦怠感を覚える体を起こしていく。
まとっている喪服のような黒のロングドレスが、少女が動くたびに皺を刻み込んでいた。
床は、すべて鏡張りになっている。先は見えない。広がるのは暗闇だけ。曲がり道もなく、何度まばたきを繰り返したところで、ひたすらに真っ直ぐな廊下が続いているだけだ。
横を見ても繊細な細工が施された柱や梁の間に、壁紙の代わりに巨大な鏡が埋め込まれていた。
窓はなく、ただひたすらに先の見えない長い廊下のような空間には自身の姿だけが映し出されている。
鈍い痛みを訴える頭を無理やり動かし、少女は鏡の上に座り込んだまま天井を見上げる。
どこかの宮殿のような見事な天使の絵が天井一面に描かれていることが、この状況においてはほんの少しだけ救いのように思えた。
かつて友人と訪れた、遊園地にある鏡の迷宮とも取れる不気味な空間。
電灯のようなものは見当たらない。
が、不思議と暗くはなかった。
光の入り込む余地など、何処にもないというのに。
手首を額に押し当て、目を細めた。
まずは状況を整理しなければ。頭を動かせば、ライトブラウンの長い髪が鏡の中揺れた。
おぼつかない足取りで立ち上がりながら、壁に映る自分をきつく睨みつける。
ここはどこだ? そもそもここに来る前、自分は何をしていた?
思い出そうとすればするほど、何も考えるなと言うように鈍い痛みが強くなる。
殴られたのだろうか? 鏡の中に映る自分は、みたところぴんぴんしている。目立った外傷はない。
ただ、貴族の女性が葬儀の時にまとうような黒のロングドレスには、全くといって見覚えがなかった。
ただ黙って立ち止まっているのも馬鹿馬鹿しいので、少女はやけくそ気味に足を一歩踏み出した。
床につくかつかないかギリギリの長さのロングドレスが、これまた黒のロングブーツにまとわりついて鬱陶しい。
舌打ちをこぼし、無駄にフリルのあしらわれたスカートをたくし上げる。
いっそのこと布を引きちぎってやりたい。というか、叶うものなら別の服に着替えたい。
これならパジャマの方がましだった。
永遠にも続いているように思われる長い鏡の上を、黒いブーツが踏みしめていく。
昨日は普通に学校へ行った。間違いない。
校門の前で友達に挨拶をして。
それから……。そこから先の記憶が、どうも曖昧になっている。
だが誘拐にしても、メリットがあるとは思えない。
(別に、裕福な家庭ってわけでもない)
社長令嬢でもなんでもない。
親はごくごく普通の平社員だ。
金銭目的の線はない。ストーカーという線もないだろう。
そもそも、監禁場所として遊園地の鏡の迷路を選ぶ馬鹿がどこにいるのか。
となれば、導き出される結論は一つだった。
「夢……」
自分で言っておきながら、馬鹿馬鹿しくなってくる。
壁に映る自身も、飽きれがちに皮肉げな笑みを浮かべている。
どういう心理状況なんだ、これは。
こんな場所に迷いこむほど、特に悩んでいた記憶はないのだが。
とにかく、夢だろうと一面鏡に囲まれた廊下に一人で放置される、というのは不気味極まりない。
あいにく、自分を追い詰めて喜ぶ趣味はない。
無心になってしばし足を進める。
昨日の晩御飯はなんだったかな、なんてどうでもいいことを思い出し気を紛らわせてみるも、景色が変わらなさすぎて飽きてきた。
ゆっくりと歩みを止め、壁に映る自分をじっくりと見つめる。
とにかく、この鏡がいけない。
どこまで行っても景色は変わらず、見えるのは自分の姿だけ。
ナルシストならそれでも楽しいかもしれないが、こっちとしてはいい加減にして欲しい。
ご丁寧にそこそこ高いヒールがついているせいで、足も痛い。
レースとフリルのあしらわれたドレスは、見た目以上にずっしりと重い。
ブライダルプランナーを目指している友人には悪いが、これから現実でドレスを見るたびにとても憂鬱な気持ちになりそうだ。
気分は最悪。夢なのだから、そこまでリアルに再現しないで欲しい。
ドレスの裾を、膝が見えるほどに思い切りたくし上げる。
数度地面にある鏡を踏みつけ苛立ちを発散すると、顔を上げもう一度鏡の中の自分と見つめ合った。
よし、いける。
狭い廊下の反対側の壁に背をつける。
現状できる限り最大限の勢いをつけ、苛立ちを込め鏡を思い切り蹴りつけた。
割れろ。くだけ散れ。せめて外の景色くらいは見せてくれ。
そんな願いを込めた渾身の蹴りは、無情にも冷たく無視されてしまった。
一切効果はない。額に青筋を浮かべた、ロングドレスの女が写っているだけだ。
「諦めて進み続けろとでも言うわけ?」
嘲笑交じりに問いかけたところで、誰も答えてはくれない。
無人の廊下に悲しく反射し、自分の耳に戻ってくるだけだ。
言葉の後に訪れるのは、飲まれそうなほどの静寂だけだ。
「分かったわよ、進めばいいんでしょう?」
馬鹿馬鹿しい。何をやけになっていたのか。
冷静になって考えてみれば、自分の愚かさに死にたくなってきた。
(目が覚めたら、全部忘れているといいんだけれど)
こんな苦しいだけの夢、早く忘れてしまいたい。
ヒールが鏡面を打つ音と衣摺れの音だけが、少女の鼓膜を揺らす。
いくら歩き続けたところで相変わらず別れ道はなく、只々真っ直ぐな廊下がひたすらに続いている。
それにしても、一体このヒールは何センチあるのか。結構足にくる。
(無理、痛い、しんどい)
気を紛らわせようと立ち止まり、大理石の柱に刻まれた彫刻の一つに目を凝らしてみる。
見事なものだ。様々な動植物の姿が、細かな職人技により掘り刻まれている。
細かな彫りを、ひとさし指でなぞっていく。
なかなか凝っている。夢なのだとすれば、案外隠れた才能を持っているのかもしれない。
だが、あまりにも生々しい。刻まれた動物も、植物も、生き生きとしすぎている。
こんなものを自分が頭の中で思い描いたとは到底考えられない。
隣の柱をちらりとのぞけば、今触れているものとは違う模様が刻まれているようだ。
ふと、いくつかの柱に共通点を見つけた。
「……蛇?」
背景の模様か何かかと思っていたのだが、よく見れば、それは蛇のうろこだった。
全ての柱の下の部分に、蛇の顔と舌のようなものが見える。
(なんで、蛇……?)
何か、あった気がする。
とても大切な何かが。気付いた時から、不気味なほどに心臓の鼓動が早まっている。
無意識にその場にしゃがみ込み、刻まれた白い蛇の顔を指でなぞっていた。
今にも動き出しそうなほどに生々しい。不思議と、恐ろしくはなかった。
むしろ、何度も見て、触れて、身近に感じてきたような。
触ったことなどないはずだ。爬虫類なんて気持ち悪い。
本当に、それだけだった?
子供の頃、何かがあったような。
いや、むしろそれよりずっと前から。
ずっと前? それはいつ?
再度頭が痛む。頑なに思い出すことを拒んでいるような痛みに、思考が散漫になる。
「おい」
咄嗟に立ち上がり、振り返る。
誰もいなかったはずの空間に、見覚えのない赤毛の男が立っていた。
(……自販機)
第一印象はそれだった。
がっしりとした長身の男だ。2メートル弱といったところだろうか。
無表情が、黙ってじっとこちらを見下ろしている。
顔の造形自体は整っている部類に入るだろう。
綺麗というよりはかっこいい。短く切りそろえられた赤毛も相まって、良くも悪くも男らしい。
がっしりとした体格、威圧的なまなざし。加えて肩章のついた堅苦しい服を着ているせいで、軍人のような印象を受けた。赤い服だ。髪と目と揃いの、服装だけでいうと王子様のような男。
ギラギラとした、獲物に食らいつかんとする肉食獣の力強い眼光が、少女の瞳を真っ直ぐに射抜いている。
「その服は」
一瞬、心を読まれたのかと思った。
だが、男は少女の纏う黒のロングドレスを射抜いている。
「え、こ、これ……ですか?」
男の眉間に皺が刻まれる。こころなしか、眼光に殺意がこもっている気がする。
何か気に触ることをしただろうか?
着たらまずいものだったとか?
だが文句を言われたところで、これ以外に服がないのだから仕方ない。
脱げと言われても反応に困る。
「気付いたら着てたっていうか……。自分で着た覚えは全くないんですけど。あははー、おかしな話ですよねー!」
後半は苦し紛れに笑いながらだ。自分でもわざとらしいと思う。
首の後ろを掻きながら、男の様子を伺い見る。
「そうか」
どうも、怒っているわけではないらしい。
何の感慨もなく淡々と答えた赤毛の男は、黙って少女の姿を睨みつけている。
「その……あなたはこんなところで何を?」
「迎えに来た」
「迎えって誰の」
「お前に決まっているだろう。でなければ、俺が進んでこんな場所に来ると思うか?」
「……私だって、こんな場所はまっぴらよ」
誰が好き好んで鏡の迷宮の夢など見るものか。
少女の独り言を聞き取ったらしい男は、少しだけ機嫌をよくしたようだ。
「そうか。なら、手間が省ける」
仏頂面にかすかな笑みを浮かべた男は、突然少女の片手を掴みすたすたと歩き出した。それも、少女が歩いてきた方向に向かって。
これでは、今までの努力が全て無駄ではないか。
なんのためにここまで歩いてきたと思っている。
努力と呼べるのか、果たして進んでいるのか戻っているのか分からないこの永遠の廊下に置いて、自身の行動に意味があったのかは謎ではあるのだが。
「帰るぞ」
「え? ちょっと……!」
鏡に映る男の顔は、淡々とした声で話しながらもどこか楽しげだ。
そもそも、初対面の男のそんな些細な感情の動きが分かることからしておかしい気がする。
男の歩幅は広い。身長が高ければその分足が長いのも当然の摂理ではあるが、男が早足のつもりでも少女の方は駆け足状態だ。
長いスカートをたくし上げる余裕もなく、このままでは布が足に絡んで転んでしまいそうだ。
「待って!」
「もう十分待った。俺がどれだけ待ったと思っている」
何を言っているんだお前は。
そんなこと、こっちは知ったこっちゃない。
完全なる会話のドッジボールだ。
そろそろ止まって貰わなくては、本格的に転びそうだ。
だが、男は止まる素振りを微塵も見せない。
「いや、せめてもう少しゆっくり歩いて欲しいというか……。あの、帰るってどこに?」
「家に決まっている」
さも当然のように、こちらが馬鹿げたことを聞いているかのように返す。
家という単語から想像されるのは、父と母の待つ我が家だった。
家に帰る。少女にとって家に帰ることは、目を覚ますことと同意だ。
この男についていけば、目を覚ますことができるのだろうか?
だが少女には、この王子のような格好をした長身の男が、悪夢から救ってくれる妖精の類だとは到底思えなかった。
来た道を帰っているはずなのに、不思議なことに道の形が変わっていた。
一本道だった筈の廊下は、数多の分岐点を作り上げている。
頭が混乱する。だが、男の足取りに迷いはない。
指標でも見えてるかのように少女の手を引いていく男には、王者の風格すらも感じられた。
「あの、そもそも私は、あなたの名前も知らないんですけどっ!」
男の、足が止まった。
突然のことにバランスを崩し、転んでしまいそうになる。
それを赤毛の男は、やんわりと両肩を掴んで受け止めた。
「あ、ありがとうございます」
「ああ」
そっけなく言い放ちながらも、男の手は未だ少女の肩に置かれたままだ。
男の動きが止まる。心底愛おしいものを見るような目で、男はじっと少女の姿を瞳に写している。
存在を、確かに触れている感覚を確かめるかのように。
男は肩に手を置いたまま、指先でそっと少女の首筋をなぞった。
熱すら篭っていそうなため息を吐きながら、ゆっくりとかけていた指を少女の体から外していく。
「俺はお前のことを、誰よりよく知っている。それだけで十分だ」
「……は?」
言っている意味が分からない。
さっきから一人で満足していないで、きちんと何がどういうことなのか説明して欲しい。
初対面、しかも歳上の男性に向かって言うべきではない呆れた声が漏れてしまうのも致し方ない。
先を歩いていく男の後を、反射的に追う。
この男のことはいまいち信用できないが、こんな入り組んだ場所で置いていかれるのも癪だ。
「……会ったこと、ありましたっけ?」
先ほど「ゆっくり」と言ったのを覚えていたのか、話をする余裕があった。
相変わらず、男の足に迷いはない。
「ないな」
夢だから、都合のいい答えが返ってきている可能性はある。
もしかすると現実で会ったことがあって、あまりにも存在が電波だったから存在を抹消していたが、深層心理では彼のことを覚えていた、なんてこともあるかもしれない。
(……それはない)
自分で自分にツッコミを入れる。
鏡に映る男の無表情も相まって、無性に虚しくなってきた。
「だが、お前は変わっていない」
会ったことはない。
しかし、この男はやはり電波だ。
「……それはどうも」
それまで振り返ろうとしなかった男が、ちらりと背後の少女に視線を向ける。
「逆に聞くが、お前は自分の名前を覚えているのか?」
名前を教えろ、ではなく「覚えているか」ときた。
何を馬鹿げたことを。
言い返そうとして、開きかけた口を反射的に閉ざした。
自分がここに来る前のことは思い出せる。
家族や友達の顔と名前もはっきりと覚えている。
学校の名前も、昨日の晩御飯も思い出せる。
それなのに、分からない。
自分の名前だけが、記憶からすっかりと抜け落ちていた。
「お前は戻ってきたいと願った。……皮肉なものだな」
歩みを止め振り返った男は、顔を歪め自虐的に笑う。
何を言っているのか分からない。
目の前の男が苦しげに笑む意味も、発する言葉の意味もわからない。
戻ってきたかった? こんなところに来たことなどない。
来たことがない場所には、戻れない。
だって行き方を知らないのだから。戻って来れる筈がない。
それでも、戻ってきたかった?
一体この人は、何を言っているんだろう?
ひどく、めまいがする。
揺らめいた体を支えるように、片方の手のひらを鏡の壁についた。
その時、耳元で亀裂音が聞こえた。
ピキピキ、パキパキと、鏡が割れる音がする。
あれほど力一杯蹴っても破れなかった鏡が、嘘のように簡単にひび割れていく。少女には目を見開き、走っていく亀裂を呆然と見つめることしかできない。
「!!」
男が何事かを口走るも、少女の耳には届かない。
男と少女の間を、大量の鏡の欠片が舞う。
長い袖で顔を庇いながらも、少女はその不思議な光景を眺め続けていた。
大小様々な欠片が舞う。キラキラと、どこからともなく降り注ぐ光源に照らされた鏡面が、星屑のように降り注ぐ。
鏡の雨の間から、向こう側に立ちすくむ赤毛の男の姿が垣間見えていた。
一際強い風が吹く。強い衝撃に、その時少女は初めて瞳を閉ざした。
まるでその時を待っていたかのように、誰かに抱きしめられたような感覚がした。頑なに顔を見られまいとしているのか、頭を強く胸元に押し当てられている。硬い胸板だ。目を閉ざしていても、体格差を感じる。
確かめなければいけない、何故だか分からないがそんな強い衝動に襲われた。
微かに目を開いていく。最初に飛び込んできたのは、黒いスーツだった。
心臓を鷲掴みにされたような衝撃に見舞われる。
この男がどこから現れたのか。
不思議とそんなことは考えていなかった。
ただひたすらに、安堵した。
何故なのかは、自分でも分からない。
ただ男からは、無性に懐かしい匂いがした。
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