アフタードールズ

22.過ぎ去りし夢

「マリア!!」

 男の手のひらに黒い炎が宿ったのと、レンブラントが部屋の扉を開け戻ってきたのはほぼ同時。
 マリアへと一直線に向かっていく男の腕を、レンブラントは渾身の力で引き留める。黒炎が弧を描く。それまで穏やかな笑みを保っていた王の顔に、明確な苛立ちが混ざった。歪んだ笑みを浮かべた男の黒い目は、まっすぐに騎士(キャバリアー)を射抜く。

「レン――!!」

 黒いジャケットの裾が、空をはためく。内ポケットから一丁の拳銃を取り出し、男の腹部に突きつける。引き金を引けば、亡霊の中に青い焔が放たれる。

「早く逃げ――」

 その筈だった。
 口元を押さえ立ち尽くしたマリアの絶叫の後、響き渡る小さな着火音。
 狐は何も語らない。右腕を黒い炎に覆われた一匹の獣は、ただ黙って猫の姿を見下すだけ。一瞬何が起こったのか、自分でも分からなかった。
 時が止まる。背後で聞こえる歓声が、次の瞬間絶叫に変わった。

「何、を」

 腹部が燃えるように熱い。否、実際に燃えていた。腹部に宿った黒い炎が、レンブラントの体を急激に蝕んでいく。黒のラウンドグラスが地面に落ちる。炎が全身に回った頃、そこにいたのは仏頂面の大男ではなく、二頭身の猫の人形だった。オレンジ色の猫が、黒い炎の中もがき足掻く様を、狐は余裕の表情で眺めるだけだった。
 王の体には傷一つない。素知らぬ顔で微笑むだけだ。

「あなたのように、偽善者面を貫いている人形は嫌いなんですよ。墜ち損ないの分際で騎士(キャバリアー)を名乗るだなんて、それこそおこがましい」

 汚れ仕事だと罵った騎士(キャバリアー)以上に穢らわしいと、あからさまな侮蔑を込めて人形を見下す。
 響き渡る悲鳴。外から絶え間なく聞こえる爆発音と、獣たちの咆哮。

「何をしたの」

 男は何も答えない。穏やかな顔をして微笑むだけだ。

「答えて。一体、あなたは何をしたいの!」

 夜の闇が訪れるのは、まだ先の筈だ。
 それなのに、これではまるで――

「私たちは夢の欠片」

 歌うようにクリスが告げるのは、すべての人形たちの魂に刻まれた呪いの言葉、その一節。

「胡蝶には、私だけがいればいい。その道を阻むものは排除する、それだけの話です。……幸い、人形たちに恨みを持っている亡霊は五万といますから」

 酷い逆恨みだ。胡蝶に選ばれなかったから。
 彼女の一番になれないのなら、徹底的に他の選択肢を潰してしまえばいい。極論にもほどがある。それに、自分の欲望のために他の人形たちを巻き込んでいい訳がない。

「だったら、他の人形は関係ないでしょう」

 拳を爪が食い込むほどに強く握りしめながら、マリアはレンブラントだったものに視線を投げた。地面に這いつくばる、猫の人形の燃え滓。

「関係ありますよ」

 男の右腕に宿る炎が勢いを増す。全てを燃やし尽くしそうな、黒い焔。
 楽屋の扉の隙間から滑り込んでくる、白い霧。

「私は、他の人形と仲良くさせるために、胡蝶をこの世界に招いた訳ではありませんから」

 男が足を踏み出す。
 
「あなた、まさか……!」

 招いたという男の言葉に、マリアは心臓を直接握りつぶされたような衝撃を覚えた。

「無理やり胡蝶をこっちに連れてきたって言うの!?そんなことは許されない! 私たちは人間界に直接干渉しては――!!」

「そんなことがなんだと言うのです。胡蝶には辛い思い出なんて必要ない。私と過ごしたあの頃だけが残ればいい。前を向く必要なんてない。過去の遺物になんてさせはしない。……絶対に」

「ねぇマリア! 一体どうなって! 」

 楽屋の扉を開け、出て行った筈のクロが血相を変え戻って来る。

「久しぶりですね、クロ」
「お前……っ!」

 穏やかな笑みを浮かべる男を目に留めた瞬間、これ以上見開かれることのないと思っていたうさぎの目が更に見開かれる。
 地面に倒れこんだ真っ黒な猫の人形、黒い焔を宿した狐。嫌でも何があったのか想像がつく。飛び込んできたのは取り落とされたレンブラントの拳銃。

「クロ――!!」

 クロが拳銃を取ろうと地面にダイブしたのと、クリスが少年を仕留めようと踏み出したのは同時。駄目だ、間に合わない。だが、クロが覚悟を決め瞳を閉ざしても、訪れたのは沈黙だった。瞼の裏に浮かんだのは暗闇ではなく、眩いばかりの金色の光の集合体。光が、蠢いていた。

 ゆっくりと瞳を押し開けていく。よく見れば、それは蝶だった。
 金色の、蝶の群。

「……逃げなさい」

 マリアが、両腕でクリスの腕を掴んでいた。抱きしめるようにして、男の右腕を必死に止めている。黒い炎に触れて、無事で居られる筈がない。
 驚いたのはクロだけではなかったらしく、クリスも意外そうにマリアの稀有な行いを眺めている。触れた先から、マリアの体は蝕まれていく。黒い炎に反抗するようにして、歌姫の体はうっすらと光り輝いている。呪いと夢がせめぎあい、渦を描く。

「いいから逃げて!」

 金色の蝶が飛んでいる。光の粒が、部屋の中を舞う。

「子供じゃ、ないんでしょう?」

 最後に見たマリアは、笑っていた。いつもの勝気な笑みで、クロをからかう時と同じ顔をして、朗らかに笑う。
 必死に足を動かし、レンブレントの拳銃を胸に握りしめ、一目散に駆けていく。逃げ足の速さがクロの自慢。早く、早くコジローにこのことを!

 クロが去ってからも、マリアは抵抗すること止めなかった。金色の光と黒い閃光が、混じり合っては消えていく。舞い上がる黒と金の光。楽屋の鏡に亀裂が走った。
 人形たちの光、胡蝶の理想の、夢の形だからこそ出来る芸当。

「私は、絶対に負けない」

 光と闇の渦の中心、クリスを見上げた女はにっと口角を吊り上げた。

 私たちは夢の欠片
 水底に沈むあなたの過去
 葬り去られたあなたの未来
 
「かばったところで、どうせ未来は変わらない。不要なものは消し去るだけだ」

 クリスが小さく溢した舌打ちを合図に、炎は一層勢力を増した。
 
「私達は不要なもの、なんかじゃない!」
「いいえ、不必要です。胡蝶に必要なのは、私だけ。胡蝶はずっと戻りたがっていた。それは、あなただって重々知っていたではありませんか」

「違う、あなたは間違ってる! 人の気持ちは変わるものだわ! 胡蝶はもう「停滞」なんて望んでいない! もう終わったの!! あの子はこの世界を楽しんでいる! なのに、あなたは「今」を否定する!! あなたの行動はただの傲慢! 胡蝶のためと言いながら、自分のことしか考えていない! 過去にすがって、自分が一番愛されていた時間に胡蝶を縛りつけようとしているだけ!! 違う!?」

 それまで余裕を保っていたマリアの顔に苦悶がにじむ。

「……黙れ」

 紅茶を淹れてくれると約束してくれた主人のためにも、ここで果てるわけにはいかないのに。
 力を一層両腕に集中させる。胸元のブローチがマリアに共鳴するように激しく震え始めた。炎と光がぶつかり合い、激しい衝撃を生む。激しくうねる互いの髪。降り注ぐ、鏡の雨。
 瞳を閉じれば、浮かぶのは幼き頃の思い出。最後の、両親からの誕生日プレゼント。初めて胡蝶と出会ったあの日のこと。

 互いに想うことは同じ。胡蝶の幸せ、ただそれだけ。

 なのに、二人の考える主人の幸せは正反対のものだ。同じ主人の人形としてあるのに、決して相いることはない。
 すれ違った思いがもう一度重なることは、決してない。

「黙れ黙れ黙れ黙れ――!!!」

 男の顔に明確な殺意が宿る。
 小さな爆発音、それが合図だった。胸元の蝶が、粉々に砕け散る。
 金の光は次第に黒に覆われ、蝶たちは散り散りになっていく。
 指先から、黒く焼き尽くされていく。一度均衡を失えば、あとはあっという間だった。

 ごめんね、胡蝶。
 詫びたところで、許されるのかはわからない。
 ああ、あの子は私のために泣いてくれるだろうか。
 胡蝶は優しいから、きっと泣いてくれる。
 でも、それでは本末転倒だ。

 どうか、どうか忘れないで

 炎の海へと沈みながら
 それでも願わずにはいられない

 焼き尽くされる寸前、マリアの体から最後の抵抗とばかりに鋭い光が発せられた。
 数多の蝶が小さな人形の体から浮かび上がり、絡み合いながら一羽の巨大な蝶となり、霧の中へと飛び去っていく。
 後に残されたのは、小さな20センチあまりの歌姫の抜け殻と、亡霊の王者だけだった。

 晴天は霧に覆われ、太陽の光も届かない薄闇。
 ああ、迎えに行かなければ。

 着せ替え人形の燃え滓を踏みしめれば、パキ、という小さな枝を折るような音をした。プラスッチク製の人形が割れる音。それには目もくれず、男はゆらりと歩き出す。
 ああ、早く迎えに行かなければ。あの子は誰よりも寂しがり屋だから、ずっと側にいてあげないと。
 ゆらりゆらりと揺れながら歩き出すその姿は、正に亡霊。
 挫折の苦しみも、置いていかれる嘆きも、すべて消し去ってしまわなければ気が済まない。楽しい夢を、永遠に覚めない幸福を。ただ願うのはあなたの幸せばかり。

 ああ、「私の」ご主人様
 願わくば
 あなたの行く道が、末長く幸せでありますように

 霧の中を進んで行く。
 人形たちの悲鳴を聞きながら、観覧車だけが光を放つ、真っ白な霧の中へと。
 

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