地獄の底でふたりきり

5.常山の蛇勢U

「ねぇ」

 呼びかければ、紫色の眼はまっすぐに少女——イヴの姿を射抜く。

「信じてもいいのよね?」

 頬に手を添え、身を乗り出し、レボルトの顔に自身のかんばせを近付けた。
 男が息を呑む音が、すぐ側で聞こえる。
 レボルトが真実を言っている、という確証はどこにもない。
 もしこの男が少女をかどわかしているのだとしても、他に頼りに出来る人間はいないのだ。
 それをいいことに、狂言を演じられている可能性がないわけではない。
 分かっているのは、慣れないことをしているせいで瞳の中に映り込む自分の顔が、ひどく強張っている、ということだけだ。

「あなたが、それを望むのならば」

 無表情に放たれたものは、なかなかの破壊力だった。
 瞳を逸らすことなく、至極当然のことのようにさらりと言ってのけてみせる。
 今度はこちらが息を呑む番だった。
 女慣れしているという風ではない。
 あなただから頭(こうべ)を垂れるのだと、付け上がってもいいのだと、自分が特別な存在になれたような錯覚に陥ってしまいそうになる。

 咄嗟に手を離し、少女はレボルトに背をむけた。

「質問はもういいんですか?」

 レボルトに動揺は見られない。
 淡々とした口調の男が、背後で立ち上がったような気配を感じる。
 ちらりと視線を向ければ、先ほどまで弱っていたのが嘘のようにしゃんとした立ち姿があった。

「聞きたいことはもう聞いたわ」

 自分だけ妙に照れていることが恥ずかしくて、頑なに顔を見せまいとする。

「そうですか」

 微塵も動揺していないレボルトが恨めしい。
 乱れた上着の裾を整えているのだろう。
 聞こえてくる衣擦れの音ですら腹立たしかった。

「俺も一つ聞きたいことがあるんです。聞いても?」

「……どうぞ」

 一体何を聞かれるのだろうか。
 淡々とした口調からは尋問のような響きすら感じられ、イヴは一人身構えた。
 どうか答えられる範囲の質問でありますようにと、祈りを捧げるばかりだ。

「学校は楽しいですか?」

「へ!?」

 間抜けな声を漏らしながら、反射的にレボルトの顔を顧みてしまう。
 聞き間違いか? そう疑ってしまうほどに、レボルトは至極真面目だった。
 顔を凝視すれば、何か文句があるのか? と言いたげな仏頂面が帰ってくる。
 それがなお、笑いを誘った。

「だって……! ぶっ……! は……あははははっ! あー! お父さんみたいなことを言うのね……っ!」

 レボルトの眉間に皺が寄る。
 腹を押さえながら、イヴは笑い混じりに声を吐き出した。

「そうね、楽しいわよ。嫌なことがないわけじゃないけど、学校は好き」

「なら、良かった」

 おかしなことを聞いた張本人は、笑顔のイヴに釣られるように瞳を細めた。
 今までで一番穏やかな顔で笑む男に、不覚にもときめきを感じてしまったことが悔しくてならない。

「イヴ様」

 急に顔を引き締めたレボルトに、イヴは小さく息を呑んだ。
 それは上下関係を明白にするとともに、少女こそがイヴなのだ、という肯定でもあった。

「今の俺に、ここから地上までを直接繋げる力はありません。ですが、あなたを導くことは出来る」

 何を言っているのかわからず、イヴは首を傾げる。

「迷宮の出口への案内人になることは出来る、と言いたいんです」

「つまり、さっきの場所に戻れってこと?」

 出来れば首を横に振ってほしい。
 そんなイヴの願いも虚しく、レボルトは呆気なく首を縦に振った。

「そういうことです。俺はそこにある扉から、あなたを『道』へと送り返します。進むべき道は示しますから、安心してください。誰にもあなたを害させはしない」

 座り込むイヴに手を差し伸べた男には、濃厚な決意の色が滲んでいる。
 何がレボルトをそこまで突き動かしているのか、真意まではイヴには分からないが——

「レボルトが言うなら、信じる」

 不思議と、不安はなかった。
 手を取り立ち上がりながら、イヴはぎこちないながらも笑みを浮かべた。
 レボルトを信じたい。だって、この男は絶対に裏切ったりしない。
 出来るはずがないのだ。
 レボルトはイヴを導くだろう。願い続ける限り、この男は従順な下僕であり続ける。
 そんな根拠のない自信が、イヴを動かす原動力となっていた。
 顔のすぐ横で、黒いカーテンが揺らぐ。風が吹いているわけでもないのに、その存在を主張するかのように。

「あ、そうだ。最後にもう一つだけ聞きたかったことがあるの」

「なんですか」

「……見ても良かったの?」

 ちらり、と窓に視線を向ける。
 レボルトに繋がれたままの腕に、もう片方の手をそっと重ねながら尋ねた。

「その、見られたくないものなんでしょう?」

 再び視線を戻せば、レボルトは怒っているのか泣いているのか、なんとも言えない顔でぎこちなく口角を吊り上げていた。

「別に」

 驚きにまばたきを数度繰り返せば、いつも通りの無表情が広がっている。
 だが、男の声は震えている。隠しきれない動揺がレボルトを蝕んでいるようだった。

「見られたところで、減るものではありませんから」

 レボルトはイヴの手を振り払い背をむけると、駆け足気味に扉へと歩を進めてしまった。
 だが、あなたになら見られてもいいのだ、と。
 軽口を叩く裏側にそんな意思が見え隠れしているような気がして、イヴはそっと瞼を伏せた。視界の隅に、レボルトの意思を代弁するかのように、カーテンの隙間から覗く青空が写り込む。

「そう」

 イヴが懐かしさを覚えるように、レボルトにとっても特別な存在であるのだろうか。
 服の上から心臓を握り締めれば、喪服のような黒いドレスに皺が刻まれる。

「イヴ様」

 強張った声が名を呼ぶ。
 顔を上げれば、ドアノブに手を掛けたまま、こちらに視線を送るレボルトの瞳とぶつかった。別れの時が近付いていることが、ほんの少しだけさみしかった。
 鉄の扉の前に立ち、スカートの裾を握りしめる。

「出口に行けば、帰れるのよね?」

「ええ」

「……あなたのこと、忘れないから」

 横に立つレボルトを見上げる。

「忘れてもらって一向に構わないんですが」

 レボルトは首を掻き、居心地悪げに視線を逸らした。

「忘れない」

 爪先立ちで身を乗り出し、意地の悪い笑みを浮かべた。
 ひゅうと、レボルトが息を吸い込む音が聞こえる。

「あなたみたいに性格の悪い人、そうそういないもの」

「……それはどうも」

 一瞬の間を置いて、レボルトは皮肉げに口角を吊り上げた。
 イヴの髪をぐしゃぐしゃと乱雑に掻き乱し、慈愛に満ちた顔で笑んで見せる。
 初対面のはずなのに、お互いに知っている。
 長年連れ添った相手のように、気心が知れている。
 気のせいかも、で片付けるにはあまりに馴染みすぎている。
 こうやって、前にも扉の前に二人して立ったことがあるような気がしてならないのだ。
 その時、レボルトは何と言っていただろうか。

「あなたの幸せを願っています。……いままでも、これからも」

 額に一つ口付けを落とされる。
 気恥ずかしいという感想は抱かなかった。そうされることが、まるで当然であるかのように。伝えたいことがあったはずだ。だが、思い出せそうで思い出せない。
 レボルトの手で扉が開かれる。その先に広がっているのは暗い暗い、永遠に続く闇の世界だ。
 背を強い力で押されれば、自分の意思に反し体は闇の中へと落ちていく。
 引き上げた男の腕で、今度は奈落へと突き落とされる。
 果てのない闇の中を真っ逆さまに落下していく中、ぽっかりと空いた扉からレボルトの姿が確認できた。
 ドア枠を掴み、レボルトは無感動にこちらを見下している。

「ちょっと……! 話が違……っ!!」

 案内をしてくれるのではなかったのか。
 抵抗の意を表すため叫んでも、部屋の灯りは遠ざかっていく。
 いくら手足をバタつかせようが、それで落下速度が遅くなるわけでもない。

 次第に灯りは遠ざかり、やがては完全な闇が訪れる。
 再び一人取り残される。今度は鏡の迷宮でも真っ白な部屋でもない。
 正真正銘の闇の中、底があるのかすら怪しい空間を急速に落ちていく。
 あれだけ情報を開示しておきながら、今更レボルトが裏切るとは考え難い。
 風を切りながら、深く息を吐き出す。下を見ることが恐ろしくて、イヴは胸の上で両腕を握りしめ、無心で天井を眺めていた。
 いくら見つめたところで何もないが、底のない暗闇を見続けるよりかは幾分マシに思えたのだ。

(信じるって決めたのは私じゃない)

 再度息を吐き出したその時、白い光が視界の隅を掠めた。
 頭上から、一筋の白い閃光が舞い降りてくる。
 ただの光の筋だったそれは、まっすぐにイヴへ向かって降りてくる途中、うねりながら形を変えていく。まっすぐな光には鱗が浮かび、目、鼻、口とそれぞれのパーツを形作っていく。
 やがてそれは、黄金色の目を持つ白い蛇へと形を変えた。
 それは、イヴがベッド下で握り潰した白い蛇とあまりに酷似していた。

「……レボルト、なの?」

 それならば、レボルトが憔悴していた理由も分かる。
 問いかけに、蛇は口を開かなかった。
 当然だ。蛇が人の言葉を喋るわけがないのだから。
 ただイヴの横を通りすぎる直前、黄金の瞳は「先に行くぞ」と言わんばかりに視線を送ってきた。必死で体の向きを空中で変え、蛇の落ちて行った先を見届ける。
 底なしの闇が広がっていると思っていた場所には、一面の白が広がっていた。
 黒を侵食するかのように、次第に白は空間そのものを蝕んでいく。穴の壁を、天井を、蛇の鱗のような亀裂が覆う。次第にそれは空間全てを覆い隠し、完全に塗り替えられてしまった。
 あまりの眩しさに、イヴは瞳を閉ざす。

 次に瞳を開いた時、そこはもう底のない闇ではなく、最初に訪れた場所とよく似た、永遠に続く鏡の迷宮だった。