地獄の底でふたりきり

15.鎮守の沼にも蛇は棲むⅦ

「そのイヴさまってよびかた、やめてほしいんだけど」

 まだレボルトと出会って間もなかった頃、イヴは戯れにそんな願いをぶつけたことがあった。
 光刺す心地よい平原で、木の幹に背を預けた蛇は自身の隣で膝を抱える少女に対し、興味深いとでも言いたげに微かに瞳孔を開く。

「どうして?」

 細められた紫色の目を見上げれば、困り顔の自分自身とぶつかる。
 木の葉の揺れる音を聞きながら、イヴは膝を抱く腕に力を込めた。

「はじめてあったとき、いったじゃない。わたしは、あなたとおともだちになりたいの」

「友達ねぇ。……この俺と、対等になりたいと?」

 立てられた片膝に頬杖を付き、レボルトは皮肉げに口角を吊り上げた。
 その意味が、今なら嫌という程よく分かった。
 下僕と主人。出会った瞬間から明確な上下関係で結ばれている、それもイヴが一方的に縛り付けているものであるにも関わらず、何も知らない小娘は思い上がった言葉を平然と吐き出していく。
 そのなんと身勝手なことか。

「そうよ」

「あなたが俺に下る、というのなら呼び捨てにしてさし上げてもいいですよ」

「いまだって、みくだしてるくせに」

「そんなことはない」

 嚙み殺したかのような笑い混じりの声に、イヴは恐る恐る頭上のレボルトの横顔を覗き見た。
 顔を見られたくなかったのだろうか。
 どこか上機嫌なレボルトは、イヴの額を軽く人差し指で小突いて見せた。
 レボルトからすれば軽くではあっても、イヴからすれば十二分に痛い。
 そもそも本人曰く敬っている相手の額を突くな、と言いたいところなのだが、そんなことを言ってもレボルトを喜ばせるのは明確だった。
 そう長い付き合いではないが、この時点でイヴはレボルトという男の性格を薄々把握し始めていた。
 人が嫌がるようなことをして楽しむような相手なのだ、この男は。
 本当に底意地の悪いやつだと、イヴは無言でどこか上機嫌なレボルトを睨みつけた。

「俺は、あなたには敵いませんよ」

 レボルトは口角を釣り上げ、突かれた額を撫でさすり、涙目で歯をくいしばるイヴを見下ろしていた。
 今思えば、それは名前の縛りに対しての彼なりの微かな反抗だったのだろう。何も知らず呑気に笑っている不出来な主人に対する、下僕なりの反逆。

「うそつき」

 レボルトは、イヴの言葉を鼻で笑い飛ばした。

「そうですね。この機会によく覚えておくといい」

 半目で睨みつけるイヴの髪を掻き乱しながら、蛇は狡猾に嗤う。

「蛇は、嘘吐きなんですよ」

 * * * *

 イヴが眠りについたのを確認し、アダムはそっと少女に布団を掛けた。
 白い肌に咲いた赤い華を目に映した瞬間、男の中にある歪んだ征服欲が満たされていく。
 無防備に眠る、というよりは気を失った、という方が正しいのかもしれないが、少女の寝顔は穏やかなものだ。
 額をそっと撫でれば、軽く身をよじりはするが、男の腕を拒もうとはしなかった。

 無理をさせた、という自覚はアダムにもあった。
 すまない、とは思っていても、それでも後悔は微塵もしていなかった。

 イヴの長い髪に指を通していく。
 くるくると、指に巻きつけては、離す。
 無意味な動作を何度となく繰り返しながら、アダムはベッドに腰掛け、イヴの寝顔を眺めていた。

 窓の外から差し込む朝日が、イヴの輪郭を暗闇の中に浮かび上がらせる。
 散々嫌だと駄々を繰り返し、最後まで、抵抗のつもりなのか、イヴは一度もアダムの名を呼ぼうとはしなかった。
 そんな彼女を無理矢理組み敷き、何度も中に精を注ぎ込み、自己満足に何度も何度も、一方的な好意を囁き続けた。

 少女の顔の輪郭を確かめるように、指を這わせていく。
 眠る少女は何も返さない。
 だが、それでいいのだ。

 心が手に入らないのなら、せめて体だけでも。

「イヴ」

「ん……」

 イヴが軽く声を漏らす。
 安らかな表情で、まつ毛を軽く震わせる。
 たったそれだけの動作にすら、心はざわつき落ち着きを無くしていく。
 愛しい。愛しくて愛しくて仕方がない。
 動いた拍子に顔にかかった髪をそっと払いながら、アダムの顔は更にだらしなく緩んでいく。
 そこにいるのは、普段鉄面皮と罵られている冷酷な生き物の統率者ではなく、一人の女に馬鹿みたいに溺れているだけの一人の男でしかなかった。

「レ……ボルト」

 閉じられたイヴの瞳から一滴の涙が落ちた。
 それを見届けた瞬間、高ぶっていた熱が一気に引いていくのを感じた。

 嗚呼、どこまでも浅ましい。
 心が手に入らないならそれでいい、なんてよく言えたものだ。
 歪な笑みを浮かべながら、少女の頬へと零された涙を舌で掬いとると、軽くイヴの体が震えを起こす。

 欲しくない訳がない。
 心も体も、その身に流れる血の一滴まで。
 そもそも、この女は己の伴侶として生み出された存在だ。
 一度芽生えた欲望は、ドロドロと心を溶かし、感覚を麻痺させていく。
 俺の好きにして、何が悪い。

 無防備に投げ出された左手首に指を這わせば、イヴが無意識に身をよじる。
 このまま力を入れればきっと簡単にへし折ってしまえる。
 ああ、でもこの腕を使い物にならなくしてしまうのは惜しい。

 ああ、この女の一挙一動全てをこの目に写しておきたい。
 笑う顔も怒る顔も、悲しむ顔も泣きわめく顔も、絶望の淵でもがく顔すらも愛おしい。

 胸元を開け放ち、軽く羽織っただけのシャツの上から、自身の背に刻まれた子猫の傷跡を抑えながら、アダムはそっと目を細めた。

 決して逃がしはしない。繋ぎ止めて、離しはしない。
 壊さないように、慎重に加減しながら、ゆっくりと確実に羽を切り落としていく。

「お前には、どんな色が似合うだろうな」

 不穏な言葉を無表情で呟き、アダムはイヴの首筋に牙を突き立てた。

 * * * * *

「……ぁ……」

 ジャラジャラという重苦しい鎖の音の間に、か細い少女の喘ぎ声がこだまする。
 背後から、覆いかぶさるように四つん這いになったイヴを強くその腕に抱き、必死に貪る男の様は、さながら理性を失った野蛮な肉食獣のそれだった。

 最早その瞳の奥になにも写さず、ただ虚空を見つめ、イヴは襲い来る獣から必死に意識を逸らそうとしていた。
 歯を食いしばり、目に涙を浮かべ、シーツを力一杯握りしめ、自身の内にねじ込まれては引き抜かれていくものの重圧に耐え抜いていた。
 露わになったイヴの白い肌には、痛々しいまでの情事の跡が刻み込まれており、少女がアダムから逃れようとする度、一つまた一つ、許さないとばかりに赤い華が増えていく。

「なあ」

 不気味な薄ら笑いを浮かべ、アダムは額から汗を零しながら、一際少女の中へと自身のそれをねじ込んだ。

「んぐ……っ! あ……あぁ!!」

 噛み切らんばかりの勢いで首筋に強く噛み付けば、ぶるりとイヴの身体が震え上がり、軽く背を仰け反らせる。

「そんなに、俺が嫌いか」

 怒張を奥へと一層激しくねじ込みながら、アダムはイヴの耳を食むようにして囁きかけた。
 激しい突き上げに、まともに考える余裕など既に無くし、答えるどころか話す事すらもままならなず、イヴはただ声とは到底形容できない、か細い音を口から不規則に漏らしていた。

 己を嘲り笑うかの如く、アダムの喉が低い笑い声を零す。

「答えるまでもないか」

「ぁ……!?ひぁ……っ!」

「そんな、に……っ……」

「ぅ、ぁ……ぁ……ん……!」

「蛇の事が、好き、なのか」

 その名を口に出した瞬間、イヴの反応が目に見えて変わった。
 中に埋め込まれているものを搾り取るような動きへと変化したそれを、男は見逃さなかった。

 浮かんだのは鬼畜な笑みと、ドロドロとした汚い嫉妬心と独占欲。
 アダムはおもむろに、少女の腰を掴んでいた両腕のうちの片方を離し、やわやわとイヴの胸を揉み始めた。
 耳の中に直接声を注ぎ込んでは、時折イヴの耳に舌を這わせ、アダムは攻め手を緩めようとはしなかった。

「残念ながら、今お前を抱いているのは俺なんだ」

 幾度となく穿ち、欲を放ち、それでも尽きる事はない欲に溺れていく。
 背後からイヴの身体を弄んでいるアダムには、正確に少女の顔を伺い見ることは出来ない。
 ただ、その顔は苦しげに歪められ、必死に現実から目を背けようとしている事は流石に見て取れた。
 揺さぶるたびに、イヴの手首に取り付けられた鎖が、じゃらり、じゃらりと一層歪な音を立てる。
 この女が確かに自分の支配下にあるのだ、という心地よい証明を示す音に、雁字搦めに囚われていく。

「お前はあいつが好きみたいだが、向こうはお前をどう思ってるんだろうな?イヴ」

「そ……っ、ぁ、れ……は……ぁあ……!ん……!」

「愛しい女が、他の……それこそ好きでもない男に弄ばれていると知ったら、普通は助けにくるんじゃないのか?」

 イヴの瞳が大きく揺れた。
 枕を強く握るか細い指に、気分は高揚していくばかりだ。
 勢いに任せ、少女の中を蹂躙しながら、アダムは口を開き続けた。

「お前はあいつにとって、所詮その程度の女だった。……そういう事だろう?」

「ん……っ、ひ……って……る……ぁ!」

 呂律の回っていない口が、ヤケクソ気味に言葉を紡ぎ出す。

 レボルトは結局一度も好きだと言ってくれなかった。
 彼に貰ったのは、嫌いだの、鬱陶しいだの、そんな言葉ばかりだ。
 最初で最後のキスをして、それで終わり。
 それだけ聞けば陳腐な恋物語だが、現実は到底物語にできるようなロマンスの欠片もない。
 一方的に好きだった。そして、勝手に浮かれていた。
 相手が迷惑がっていることなんて考えなかった。
 名前の持つ意味なんて、知らなかった。

 アダムに突き上げられながら、イヴはぼんやりと思う。
 幾度となく繋がり、疲れた身体から出てくる感情はどんどん悲観的になり、とても前向きに自体を捉える事など出来ない。

 こんな小娘に長年付きまとわれて、レボルトも随分迷惑だっただろう。
 知っている。彼に好かれてなどいないことは、イヴが一番分かっている。
 アダムに言われるまでもない。不毛なものだった。
 元からどうしようもないものだった。
 ただそれだけの話だ。

「しっ……てる……ぁ……わよっ!」

「……そうか」

 ぼそりと無表情に呟いたのを合図に、アダムの動きが激しさを増す。
 ずぶずぶという淫らな水音が部屋に響き渡り、怒張が最奥を築き上げた瞬間、何度目かもう分からない精が、イヴの内側へと放たれた。

 ようやく硬度を失い引き抜かれていくそれに、イヴは静かに安堵の息を吐いた。
 力の抜け、うつ伏せにベッドに深く沈み込んでいく自身の身体を、無表情ながらもその顔に似つかわしくなく、異様なまでに甲斐甲斐しく清めていくアダムを呆然と目に写しながら、イヴはぼそりと呟きを零した。

「……嫌われてるのは、最初から分かっていたもの」

 口にすれば悲壮感が増す。
 好意的な言葉なんて一度も言ってくれなかった。
 イヴの身体を無表情に濡れた布で拭いていたアダムは、ただでさえ険しい顔を更に強張らせた。

「あいつは来ない」

「そうね」

 されるがままになりながら、イヴはぼんやりと生返事する。
 アダムの瞳の奥にある、汚い欲望から目を背けるように、イヴはそっと目を閉じた。
 身体を拭いていく手つきは優しく、先程までの荒々しい行為とは別人のように感じられる。
 それが妙に滑稽に思え、イヴの口元には笑みすら浮かんでいた。

「……それでも、どうしようもないの」

 下僕だってなんだって構わない。
 ほんの少しでもレボルトの中に傷跡を残せたのなら、それだけでもう十分だ。そんな風に考えてしまう程度には、アダムやレボルトの言う通り、イヴは大馬鹿なのだろう。

 本当に、愚かすぎて笑えてくる。

 目を開ければ、イヴの身体を拭っていたアダムの腕が、少女の手首にある枷を上からそっと撫でていた。
 かつてレボルトを縛り付けた時脳裏を支配したのと同じ音が、そこにはあった。

「ああ、そうだな」

 アダムの瞳はただ真っ直ぐに、不安定に揺れる鎖を写している。

「本当に、どうしようもない」

 緩やかに口の端を歪めるアダムの姿をぼんやりと捉えながら、イヴは再び諦めたように瞳を閉ざしていった。