地獄の底でふたりきり

12.鎮守の沼にも蛇は棲むW

 蛇に名を付けたその日から、イヴは毎日レボルトの元へと通い始めた。
 アダムの監視をかいくぐり、毎日欠かさずレボルトの元へと訪れる。
 最初は、6歳の少女なりの意地だった。
 嫌いだと頑なに言い張る口に、一度でも好きと言わせてやりたい。
 そんな子供じみた意地で、イヴは知恵の木を訪れ続けていた。
 巨木の下に二人して腰掛け、他愛のない雑談に興じる。
 基本的にはイヴが一方的に、こんなことがあった、あんなことがあったと話して聞かせるだけ。
 レボルトは聞く一方だ。時折悪態を挟んでは、迷惑そうに相槌を打つ。
 それでも、決して拒むことはない。
 間に交わされた契約の意味など知らぬまま、ただイヴは年月だけを重ねていった。

「わたしのこと、すきになった?」

「そんな日は永遠に来ませんから、安心してください」

 別れ際に返される言葉はいつも同じだ。決してレボルトは頷いてくれない。
 だからこそ、こうしてイヴはレボルトの元へ訪れることが出来ている。
 もし頷かれてしまったら、そこでこの逢瀬は終わりなのだ。
 好きになってくれるまで通う。
 それが、二人の間に交わされた小さな約束だった。

 変化のない問答を何度も繰り返しているうちに月日は流れ、イヴは16歳の少女へと成長を遂げていた。
 イヴが成長しても、レボルトの姿は変わらない。
 出会った日のまま、その顔に相も変わらぬ仏頂面を浮かべ、イヴを軽くあしらい続けている。
 こうして丘の上、レボルトの横に並んで膝を抱えるのも随分と慣れたものだと、イヴはおもむろに腹が立つほどに小綺麗な横顔を眺めた。
 楽園に住む者たちは、基本的に老いることがない。大人になると同時に、その時を止めてしまう。
 レボルトも、ラビも、兄であるアダムとて、本来はもっとずっと外見以上にイヴよりも永い時を生きている。
 この場所において成長を続けているのは、まだ未熟者のイヴだけだ。

「レボルトって、どんな子供だったの?」

 不意に浮かんだ疑問をぶつければ、レボルトは誤魔化すようにイヴの頭を上から押さえ、その髪を乱雑にかき乱した。

「そんな昔のことなんて覚えていませんよ」

「やめてよ」

 ぱしっと腕を振り払えば、男の喉元から低い笑い声が漏れ出る。
 わざとらしく口角を吊り上げ厭味ったらしく笑うのも、出会った時と全く同じだった。

「まあでも、そうですね。今とあまり変わらなかったと思いますよ」

 大人しく引き下がったレボルトは、そっけなくそんな言葉を漏らした。
 木漏れ日がレボルトの髪を柔らかく照らし出す。
 本当に、顔だけは無駄に整っている。顔だけは。
 一度口を開けば、腹の立つ厭味混じりの敬語が飛んでくるというのに。

「昔から生意気だったってこと?」

 レボルトの眉間に筋が浮かぶ。
 こういうところでレボルトは判りやすい。
 10年も一緒にいれば、流石に相手の出方も読めてくるというものだ。

「逆に聞きますけど、素直な俺なんて気持ち悪いと思いませんか」

「……それもそうね。素直なレボルトなんてレボルトじゃないもの。ぶん殴ってやりたくなるくらいが丁度いいと思うわ」

 いい笑顔で返してやれば、レボルトは眉間を押さえ遠い目で溜息を吐く。

「昔の素直だったあなたはどこへ行ったんでしょうね」

「誰かさんのせいだから諦めて。そんな私はもういないわ」

「そうですか」

 得意気に胸を張れば、レボルトが辟易とした声を漏らす。
 そよ風がイヴの髪を撫でる。おもむろに、イヴはレボルトの肩に頭を預けた。
 顔を逸らしながらも、レボルトは大人しくされるがままになっている。
 ここで文句の一つでも言ってくれれば諦めもつくというのに、一向にレボルトは口を開かない。
 ただ黙って遠くを眺める眼差しに、イヴは膝を抱える両腕に力を込めた。

「……ねえ」

 呼びかければ、視線がこちらへと向けられる。

「いつになったら、私のことを好きになってくれるの?」

「そんな日は一生来ません」

 レボルトの声は淡々としていた。

「……そう」

 それでいい。
 今以上をレボルトに対して求めようだなんて、微塵も思わない。
 もう、何も知らない子供ではないのだ。そう遠くない未来、イヴはアダムの花嫁となる。
 アダムが、こうして知恵の木を訪ね続けていることに気が付いているのは知っている。
 そして、イヴの行動を快く思っていないということも承知の上だ。
 それでも頑なに意地を張り、こんな馬鹿げたことを続けている。

 イヴの知る限り、レボルトは悪魔などではなかった。
 口が悪く生意気、性格は最悪。そのくせ顔だけは無駄に整っている。

 ただそれだけの個人だ。

 そんな自分でもなんでこいつなんだと思ってしまうような男に、どうしようもなく惹かれてしまっている。でなければ10年も通い続けたりはしない。
 現時点で、間違いなくイヴとレボルトは『友人』だ。
 レボルトは認めないだろうが、少なくともイヴはそう思っている。
 甘い言葉など一つもなく、超えてはいけない一線だけは超えていない。
 ただ皮肉をぶつけ合うだけの関係。
 だからこれは、断じて裏切りではない。
 友人を訪ねることに、誰にも文句など言わせない。

 やけくそのようにわざと肩へとのせた頭に力を込めても、レボルトは何も言わなかった。

「私、諦めないから」

 瞳を閉ざし、体重を更にレボルトへと掛ければ、気配でレボルトがほころぶのが伝わってきた。

「どうぞ、お好きなように」

「……言われなくても」

 今更、好きと言って欲しいなんて願わない。
 自分が将来どうなるのかなんて、イヴ自身が一番よく理解している。
 けれど、今になってもここを訪れたことを後悔したことはなかった。

(……どうせ、レボルトは私のことなんてどうも思ってないだろうし)

 嫌々小娘の我が儘に付き合ってくれているだろうことは、薄々察している。
 どの道、叶わぬ恋なのだ。
 一方的な思いで構わない。どうせ、いつかは終わりがくる。

 その日までは。
 少しでいいから、小娘に甘い夢を見ることを許していて欲しかった。

* * * * *

「お前がどこに行っているのかは、あえて聞かない」

 帰宅を知らせるために部屋に顔をのぞかせたイヴに対し、アダムはそんな言葉を投げかけた。
 絶え間なく動かし続けていたペンを止め、アダムは椅子の背もたれに背を預ける。
 背後から差す夕日の赤が、アダムの姿をよりくっきりと浮かび上がらせていた。

「出歩くな、とも言わない。——ただ、少し限度が過ぎるんじゃないのか?」

 きつく睨み付けられれば、ぐうの音も出ない。
 アダムに対峙する形で机のすぐ前に立ち、体の前で軽く腕を組んでいたイヴは、指をおもむろに組み直した。

「もう子供じゃないんだ。……俺の言っている意味が分かるな」

「……分かってる」

 腕を組み身を乗り出したアダムに、イヴは静かに首を縦に振った。
 無邪気に兄として慕っていたあの頃とは違う。
 アダムが周囲からどういう評価を受けているのか、他者に対しどういう接し方をしているのか、現在のイヴは重々承知していた。

 為政者として、アダムは優秀だ。私情を挟まず、淡々と客観的に仕事をこなしている。
 ただ、為政者として優秀なことと、人として出来ているということはイコールではない。
 優しいと思っていた兄は決して万人に対して平等に愛を振りまいているわけではなく、ただイヴだけを特別に扱っている。偏愛とすら呼べる情をイヴへと向ける一方で、他のものには何の感情も抱いていない。
 どうなろうが知ったことではないとすら思っていそうだ。
 偏執的なまでに、間違いなく、愛されている。
 他の誰よりも、何よりも、比べるのもおこがましいほどに。
 その上で、やろうと思えばイヴの意思を無視して閉じ込めることも出来るのに、アダムはあえてそれをしない。
 イヴの意思を出来る限り尊重してくれている、といえば聞こえはいいが、要は自分の意思で選んで欲しいのだろう。無理強いするのではなく、あくまでイヴの意思で自分の懐に飛び込んで来る日を待ち続けている。
 ただそれは、逆に言えばイヴが意地を張り続け今の状態を保ち続ければ、現状のまま過ごせるということでもある。
 だからこそ、イヴは無視を続けている。
 もうすぐ時が満ちるのは分かっているのに、大人になるその時まではと、痛いまでの好意に見て見ぬふりを貫いている。

「イヴ」

 咎めるような声に、おずおずと顔を上げる。

「いつになったら、俺を好きになってくれるんだ?」

 真顔で言い放たれた言葉に、一瞬硬直する。
 イヴの言葉をなぞるようにして、アダムは妹を試していた。
 やはり、アダムは分かっている。
 ゆっくりと数度深呼吸を繰り返し、イヴは慎重に口を開いた。

「……好きよ」

(兄として)

 アダムのことは好きだ。小さい頃からずっと一緒に過ごしてきたのだ。当然、愛してもいる。
 けれどそれは、単なる家族としての親愛の情以上には成りえない。
 恋愛感情を抱くには、あまりにもアダムは近過ぎたのだ。
 罪悪感を刺激されないわけではない。
 こんなにも思ってくれているのに、応えられなくて申し訳ないとも思う。
 今更なのだ。そういう宿命なのだから、妻となることに異論はない。
 全身全霊出来る限りアダムの想いに応えたいと、そう思っているのもまた事実だ。
 それでも——

(心だけは、あげられない)

「なら、いいんだ」

 再びペンを手にし、アダムは書類の山と格闘を始める。
 言いながら、アダムもイヴの言葉の裏を理解しているのだろう。

「最後に隣にいてくれるのなら、俺はなんだって許せる」

 ——そこに、心がなくとも。
 そんな意図が込められているような気がして、視線だけを動かし告げられた言葉に、イヴの背筋には悪寒が走った。

 アダムの部屋から出ると同時に、イヴは横から声を掛けられた。

「イヴ」

 ドアノブから腕を離し、体を声の方に向ければ、そこにはドアに隠れるようにして立っている10年前と変わらぬ姿をした父の姿があった。腕を組み、壁に背を預ける男の姿はひどく若い。
 父と言うにはあまりに近くなった外見年齢だが、その顔に浮かぶのは二十代の若造とは到底思えぬ硬い表情だった。

「蛇だけは、やめておいた方がいい」

 心までは蝕まれぬようと口にしたのと同じ顔で、王は静かに娘を窘める。
 それならば、いっそ会うなと言ってくれればよかったのだ。
 そうすれば、こんなにも良心の呵責に苦しまずに済んだ。

「……分かっているわよ」

 御門違いと分かっていながらも、イヴは恨みがましく父を睨みつけてしまう。
 娘の静かな怨嗟の念に、王は曖昧に笑むだけだ。

「僕は、君『たち』に幸せになって欲しい。だから、蛇だけはダメだ。それだけは絶対に認められない」

「分かってるってば」

 お説教など聞きたくないと、イヴは長い髪を翻し父に背を向ける。
 そのまま自室へと向かう娘の姿を、王はゆったりとした足取りで追いかけた。

「君が思っているほど、蛇は甘い生き物じゃない」

 妙な言い回しに、ぴたりと足を止める。
 振り向けば、変わらぬ笑みを浮かべる父の姿があった。

「そんなこと、最初から分かっているわよ」

 父の言う通り、蛇は残酷だ。
 意地悪で、生意気で、いつまでたってもちっとも想いに応えてくれないくせに、追い返すこともしない。拒むことも、受け入れることもしない。
 だが、父の反応は芳しくない。
 深く溜息を吐き叱咤する姿に、先ほどのアダムの顔が重なって見えた。

「そうじゃない。イヴ、君は蛇の恐ろしさを何も分かって——」

「会ってもいいと自分で言ったくせに、酷く差別的なことを言うのね」

 かつての言葉をそのままなぞれば、父は言葉に詰まったようだった。
 近付くなと端的に言えばいいのに妙に回りくどい言い方をする王に、イヴは正直イラついていた。

「……レボルトにとって、君は何だと思う?」

 しばしの沈黙の後、王は苦し紛れにそんなことを口走る。
 先ほどから、何が言いたいのかが分からない。

「やっかいものの小娘でしょう?」

「そういうことじゃない。いいかい、君は蛇に名を与えてしまった。初めて出会ったあの時から、レボルトにとって君は——」

 扉が、勢い良く開けられる。ぎょっと視線を向ければ、王の背後、閉ざされていたはずのアダムの部屋の扉が開いていた。
 王の肩越しに、アダムの顔がのぞく。
 顔をのぞかせた部屋の主は、イヴと向き合ったままアダムに背を向ける父を鬼の形相で睨みつけていた。

「少し、いいか」

「……分かったよ」

 観念したように、王は両手を軽く上にあげ、目を閉じ口元に笑みを浮かべた。
 じっとその場に留まり、アダムの部屋に入っていく二人を見届けていると、アダムから鋭い声が飛んできた。

「イヴ」

 視線を逸らしたまま、婚約者はこれまで聞いたどんな音よりも低く、地を這うように囁く。

「お前は、部屋に戻っていろ」

 足を動かすことはおろか、頷くことすら出来ず、イヴはしばしその場に立ち尽くす。
 何が起こったのか突然の事態に状況を把握出来ず、扉の閉じる音でイヴは初めて我に返った。

「……一体、何だっていうのよ」

 頭を抱え一人問いかけたところで、答えるものは誰もいない。
 窓の外に広がる茜色の中、一瞬黄金が輝いたような気がした。