黒い獣は愛する人の夢を見るか?【前編】

Twitterのフォロワーさん250人突破記念SS。
本編と後日談のさらにその後の、ちょっとした小話。
※ムーンライトノベルズの活動報告に投稿したものと同一の内容です。


【SS】黒い獣は愛する人の夢を見るか?(前編)【えみりちゃんのいぬ】
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 何もかもが、うだるように暑い。
 夢の淵から意識が現実へと浮上する瞬間、一番最初に感じたのは、そんなどうしようもない、漠然とした不快感だった。
 泥のように沈み込む億劫な体を動かし、咲里はそろりと瞼を押し上げていく。

(……あれ)

 そうして違和感に気が付く。
 咲里の視界に真っ先に飛び込んできたのは、綺麗に磨き上げられたフローリングだった。それからソファーとテーブルの足に、妙に遠くに感じられる見慣れたリビングの天井。頬に当たるフローリングの冷たさが、熱を帯びた体に心地よく馴染んでいく。
 自分は今どういった状態になっているだろうと、咲里は呆然と横たわったまま、寝起きで回らない頭をうんうんと捻ってみる。

(確か、ちょっと眠いなぁと思って、ソファーで横になって……)

 おそらく、いつの間にか眠ってしまった。
 頭に入ってくる情報を総合して鑑みるに、眠っている間にソファーから転がり落ちて、そのまま図太くも床の上で眠り続けていたのだろう。寝相はさほど悪いほうではなかったのだが、珍しいこともあるものだと、咲里はうとうとと未だ覚醒しない頭で寝そべったまま、そんなことを考えていた。
 庭へと続く窓越しに見える空は12月とあって、夕方ともなればすでに暗く、夏に比べ空気も全体的に重い。
 それにしても。

(変なの……。冬なのに、暑いなんて)

 とにもかくにも、いつまでもこうしてフローリングの上に横になっているわけにもいかないと、咲里は未だ気怠さの残る体をゆっくりと起こしていく。
 と、咲里が床の上に座り込むのと同時に、玄関の鍵が開く音がした。

 先ほどからくろの姿が見当たらないとは思っていたが、もしや出かけていたのだろうか。
 くろが咲里を置いて一人で出かけるだなんて珍しいこともあるものだなぁと、これまたいつにも増して呑気に考えながら、咲里はじっと座り込んだまま、廊下へと続いている閉ざされたリビングの戸を眺めていた。
 
 この時、咲里は気が付いていなかった。別にくろは自由自在に姿を消したり現したり出来るのだし、外出するにしても普段、くろ一人の時わざわざ玄関の扉を開けて帰ってきたりはしない、ということを。

 だがそこに思い至る前に、がちゃりとリビングの扉が開けられた。

「……ただいま」

 顔を見せた仏頂面の男は、咲里の姿を瞳に映し出した瞬間、溶けそうなほどに甘やかな笑みを浮かべる。己の姿を捉えたその一瞬胡乱な瞳が輝きを増すことに、咲里はいつもどうしようもない安堵と幸福を感じていた。くろに釣られるままに、咲里も口角を吊り上げようとして。

(……なんで、スーツ?)

 くろの服装を認識した瞬間、咲里の頭の中に疑問符が浮かぶ。
 最近、くろはTシャツやジーンズ、周囲が冬に近付くにつれトレンチコートにセーターといった厚着にはなっていたものの、ラフな服装に身を包んでいることがほとんどだった。
 それなのに、今日は初対面の時に纏っていたのと同じ、ブラックスーツを身に着けている。

(スーツ姿、久しぶりに見た……かも)

 もしかすると、夏の旅行の時以来かもしれない。

(旅行に出かけたのが確か七月で、今が十二月だから……4か月ぶり? でも、なんで……?)

 正装を必要とする場にでも出かけていたのだろうか?
 仮にもしそうだとして、どこに? そしてなぜ、咲里に黙って一人で?
 別に、黙って出掛けたことを咎めたいわけではない。単純に、疑問なのだ。

 何かが、何かがおかしいと、正体不明の疑念が頭の中を覆いつくしていく。
 そのまま探りを入れるようにくろの姿を凝視しているうちに、その腕にカバンが握られていることに気が付いた。黒い色の、スーツと同じ色をした革製のビジネスバッグだ。

(くろ、普段……、カバンとか持たないよね……?)

 旅行の時にはスーツケース、普段の買い物などでは咲里の荷物を持ってくれることはあるが、家から出る際に自分のカバンを持っていたことはなかったように思う。強いて言えば、出会ったばかりの頃に金の入った巨大なボストンバッグを持って来たことくらいか。

(でも、あれも別に、自分の荷物を持っていたわけじゃないし……)

 何も持たず、かと思えば、どこからともなく財布や傘を取り出して見せる。
 財布はまだどこかポケットにでも入れていたのだろうと解釈できなくもないのだが、傘はどう考えても収容スペースに無理がある。折り畳みならまだしも、そういうわけでもない。いたって普通の、柄が折れ曲がらないものだった。
 そのあまりの突飛さも、今となっては慣れたものだが、くろに否定されこそすれど魔法使いの所業か、異次元から取り出しているのかと言いたくなる。

 咲里は床の上に座り込んだまま、ぼーっとくろの姿を見つめ続けた。
 少しよれた黒色のスーツに、同じ色のビジネスバッグ。それはさながら、会社帰りのサラリーマンのようで。

「咲里?」

 じっと己を見つめたまま返事もせず黙り込む咲里に、何を思ったか。
 微かに眉を顰め首を傾げたくろに、咲里はハッとさせられる。

(あ、えっと……)

 ――おかえりなさい。

 カバンを乱雑にダイニングテーブルの椅子に置き、座り込む咲里に向って歩を進めてくるくろに、そう微笑みかけようとして。
 咲里の喉をついて出たのは、聞きなれた自分の声ではなく、甲高い『鳴き声』だった。キャンという、それこそ小型犬のような、どこか頼りない咆哮。

(えっ……)

 さーっと、暑いし熱いと思っていた体から血の気が引いていく。
 これまでずっと、何かがおかしいとは思っていた。
 けれど、いくらなんでも、自分の声が犬になるだなんてそんなバカげた話があってたまるものか。
 
(ちょ、ちょっと待って……)

 寝起きで働いていなかった頭が、一気に覚醒する。
 もしかして聞き間違いだろうかと、咲里は何度も口を開閉し、人間の言葉を発しようとする。だが、何度やっても耳に飛び込んでくるのはかわいらしくも耳障りな、甲高い鳴き声だけだ。
 座り込んだまま、何度も挙動不審に声を上げる咲里に、くろは微かに目を見開いたのち小首をかしげて見せる。

「どうかしたのか」

(ど、どうかしたのかじゃ、ない……)

 どうしたもこうしたも大ありだ。むしろ、なぜ驚かないのか。

 ――こ、声が出な……、喋れないの。

 そう訴えるように、しつこく吠え続ける。
 すると、くろは困ったように微笑んで、座り込む咲里の前にしゃがみ込んだ。

「悪かったな」

(え……?)

 一体、何に対しての謝罪なのだろう、
 もしかして、今咲里が喋れなくなってしまったことに何か関係が。

「腹が減ったんだろう? すぐに、用意してやる」

 座り込む咲里の頭を撫で、上機嫌に口にするくろに、がっくりとうなだれる。
 的外れもいいところだ。それどころか、言葉遣いもどこかおかしい。
 具体的には、いつもより少しだけ上から目線というか、まるで小さな子供に向けて喋っているかのような。
 
 ――お腹は別に減ってないっていうか、そうじゃなくて、あの、くろは変だと思わないの……?

 そんなことを訴えかけようとして、至近距離へと近付いたくろの顔を不服交じりに睨みつける。その瞳に映り込んでいた自身の姿を見た瞬間、咲里は絶句した。
 犬だ。白い、犬がいた。見るからにふわふわで、触り心地がよさそうな、綿あめのような小型犬。似たような外観の犬種を、咲里はテレビで何度か見たことがあった。そう、あれは確か――。

(ポメラニアン……)

 気付いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
 床に座り込んでも、妙に低すぎる視界。いつもより不自然に大きく感じる周囲の縮尺。キャンキャンというハイトーンな鳴き声。

(さっきから暑すぎると思ってたのも、もしかして)

 犬は人間より体温が高いというし、そのせいなのだろうか。
 周囲が暑いのではなく、熱いのは咲里の方だった。
 考えれば考えるほど腑に落ちて、咲里はますます困惑する。
 今自分が犬になっているということは分かった。理解したくはないが、現実問題そうなのだから仕方がない。だがそれはそれとして、何故今自分は犬になっているのか。あまりに全てが唐突すぎて、こうなってしまった原因が分からない。

 困惑する咲里を置き去りにして、くろは立ち上がると、のんびりとした歩調でキッチンへと向かっていく。
 
(くろは、どうして……何も言わないんだろう)

 重たい腰を上げ、短い四つ足で恐る恐るくろの後ろをついて歩く。
 普通、人間だったはずの自分の主人兼、彼曰く妻が唐突に犬になっていたら、錯乱してもおかしくはないような気がするのだが、くろにはそんな素振りは微塵もない。むしろ、最初から咲里が犬であることが当然であるかのように振舞っている。

「ほら」

 咲里の考えを中断させるようにして、くろはしゃがみ込むと、咲里の前にそっとプラスチック製の餌入れを二つ置いた。一つには水が、もう一つには小さな茶色い固形物――ドッグフードが入っている。今くろからすれば咲里は犬なのだから、人間の食べ物が出てくるほうが不自然ではあるのだが。

(ドッグフードを食べるのは、人間としての尊厳的なものが……、ちょっと……)

 外見は完全に小型犬でも、心は人間の篠塚咲里のままなのだ。
 幸いなことに、空腹感はあまりない。
 むしろ、こんな状況では食欲は減退していくばかりだ。
 用意してくれたくろには申し訳ないが、ドッグフードは謹んでお断りさせていただく。

(でも、水はちょっと、……飲みたいかもしれない)

 何度も無為に吠え、さらには寝起きなのもあり、少し喉が渇(かわ)いてしまった。
 餌の入った皿には無視を決め込み、咲里は水の入った餌入れの前に小さく座り込む。
 水面に映った自身の姿はやはり白いポメラニアンで、たまらずがっくりと項垂れてしまう。物悲しい気持ちでちろちろと短い舌を動かし、水を嚥下(えんげ)しながら。咲里はしゃがみ込んだまま、じっと咲里の挙動を観察しているくろの姿を盗み見た。
 「咲里」と名を呼んだからには、眼前の犬が咲里であるという認識はあるのだろう。けれど、犬であることに疑いは持っていない。

(どういう、ことなんだろう)

 見れば見るほどくろの姿は、会社帰りの疲れたサラリーマンが飼い犬に餌をやっている絵面にしか見えず、咲里の思考はますます混迷を極めていった。

「餌、食わないのか? ……少しは、食べた方が」

 問いかけに、何度も首を横に振る。

「……そうか」

 あからさまな落胆を浮かべ、そんな呟きを漏らすくろに、全く心が痛まなかったといえば嘘になる。

(でも、ちょっと、勘弁してほしい……)

 罪悪感から逃げるようにして、咲里は足早にソファーの後ろへとその小さな身を隠した。

 内心溜息を吐き、咲里は黙って餌入れを片付け始めたくろの姿を覗き見る。
 しばらくすると、くろは一人リビングを出て行ってしまった。そうして風呂場から聞こえてきた水音と、何かをこするかのようなブラシ音に、風呂の湯を入れに行ったであろうことを悟らされる。
 一人きりになった瞬間、急に現状を突き付けられた気がして。リビングの閉ざされた扉の向こうから響くシャワーの音を聞きながら、咲里は右往左往と落ち着きなくソファーの周りを歩き回った。
 その度聞こえるトテトテという普段とは違う情けのない足音が、一層焦燥を加速させていく。

(どうしよう、……どうしよう)

 どうしようもなにも、こうなってしまった原因が分からないのだから解決のしようがない。けれど、何もしないでじっとしているのも、それはそれで落ち着かなかったのだ。

「咲里」

 いつの間に、戻ってきていたのだろうか。唐突にリビングの戸を開け顔をのぞかせたくろに、それまで忙しなく動き回っていた咲里は、ぴたりとその歩みを止めた。

「あんた、やっぱり何か変だぞ。……大丈夫か」

(大丈夫じゃない……。全然、大丈夫じゃない……)

 短い尻尾が、不安からか激しく揺れる。
 そんな咲里の様子を、くろはしばしその場に留まったまま、無言で見守り続けていた。だが、全くもって落ち着きを取り戻さない咲里を見て何を思ったのか。
 座り込む咲里の前にしゃがみ込むと、前足と胴の間に腕を差し込み、持ち上げると、そっと自身の腕の中に抱え込んだ。
 咄嗟の接触に、咲里はくろに抱きしめられたまま唖然としてしまう。咲里を抱き上げたまま、くろは機嫌を窺うようにして小さな犬の顔を覗き込む。

「そんなに、一人でいるのが不安だったのか?」

 ――そういう、わけでは。

 口を開きかけた咲里が声を発するのを待たずして、くろの腕が咲里の腹部に触れる。
 そのままわしゃわしゃと無遠慮に体を撫で上げる生々しい男の掌の感触に、咲里は一人身悶えた。
 今咲里は犬の姿なのだし、咲里を抱き上げ撫でているくろの行動は、端から見れば何らおかしなものではないのだろうが、される側からすればたまったものではない。
 指先を動かし、毛を掻き分け、巧みな手付きでくすぐるようにして全身に触れるくろのスキンシップに、普段散々くろと体を重ねているくせに、それとは違う種類の凄まじい羞恥が咲里の心を蹂躙する。

(ちょ、ちょっと待っ……!)

「あぁ」

 キャンキャンとか細い悲鳴を上げ、短い手足を必死にばたつかせるも、くろはどこ吹く風だ。感嘆の息を吐き、無防備に腹側をくろに差し出す形となっている咲里の体を撫で上げる。

「あんたは本当に、かわいいな」

 向けられた無防備な微笑みに、息を呑む。
 ああ、もうだめかもしれない。
 そんな時。走馬灯のようにして、咲里の脳裏にくろがまだ普通の飼い犬だった時の情景が蘇った。

 過去。思い返せば、咲里はよくくろの全身を撫でまわしていた。
 くろは小型犬というには体格が大きかったのもあって、今くろが咲里にしているように腕の中に抱え込んで、といった体ではなく、行儀よく座り込んだくろに咲里が抱き着くような形で、ではあったが。

 されるがままに撫でまわされながら、遠い目でそんなことを考えていたところで、唐突にくろの腕が止まった。

 咲里を床の上へと下ろすと、名残惜し気にその頭を撫で、立ち上がり、自身は乱雑にスーツの上着をソファーの背もたれに掛けると、小さく溜息を吐きながらダイニングテーブルへと腰掛ける。

「……やるか」

 やるって、何を?

 湧き上がった咲里の疑問に、答えを示すようにして。
 眉間に皺を寄せ黒いビジネスバッグを開くと、黒縁の眼鏡を取り出す。
 そのまま眼鏡を装着したくろに、眼鏡を掛けているところなんて初めて見ただなんて呑気に思う咲里を置き去りにして、眼鏡の奥――それまでゆるやかに細められていた男の目に、鋭さが増す。

 次いで同じく黒色のノートパソコンと、沢山の紙が入ったクリアファイルを取り出し、次の瞬間には目にも止まらぬ速さでタイピングを始めたくろを、咲里はただ呆気に取られ眼下から見守ることしかできなかった。
 時折キーボードを叩く腕を止めたかと思えば、机の上に広げた書類を確認し、眉間を揉み解し、またしてもタイピングを再開する。
 咲里の位置からでは、テーブルが邪魔をして、くろが読んでいるものに何が書かれているのかを認識することは出来ない。

(これ、どう見ても……。たぶんだけど、仕事してるんだよね……)

 咲里の知る普段のくろは、人間ではない。生者ですらない。死んだ犬の怨霊だ。くろは咲里の常識外の方法で、どこからともなく必要なものを出現させることが出来るため、生活していくうえで働く必然性などなかった。

(でも、今のくろは……)

 咲里が犬の姿をしているように、外見の上では変化がないように見えても、普段のくろとは違うのだろう。
 その証拠に、咲里を当然犬として扱い、当り前に玄関の扉を使って家に入り、こうして家に帰って仕事のようなものをしている。

 会社勤めのサラリーマンと、その飼い犬。
 浮かび上がった言葉が、妙に腑に落ちる。
 そう考えてしまえば、現状のすべてに片が付いてしまうから。

 もしかすると、これは現実ではないのかもしれない。
 不条理極まりないが、一度全部夢なのだと仮定してしまえば、咲里は次第に落ち着きを取り戻していった。眼鏡の先の黒い目が忙しなく動き回るのを、足を揃え、黙って座り込んだまま凝視する。




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