アフタードールズ

28.いつまでも


 王がいなくなったあの夜から、およそ一週間。

 歌姫と、その守護者だった男の葬儀は、厳かに執り行われた。
 彼女が最も輝いていたステージの上には、微笑みを浮かべるマリアの写真とともに、数え切れない花束が積み上げられている。彼女がどれほど人形達に尊敬されていたのか、胡蝶はここにきて初めて実感した気がした。

 黒い服に身を包んだ参列者達が揃って口ずさむのは、マリアが生前胡蝶の前で歌ってくれたあの曲だった。聞いているだけで胸が熱くなる、胡蝶のために歌い上げられた曲。
 夕方になっても、人々が会場を離れる素振りはない。以前なら、急いで家に篭り怯えていた時間。けれど、もう恐れる必要はない。
 歌姫の犠牲がもたらした、束の間の安息。
 胡蝶の視界を掠めたのは、動きを止めた観覧車だった。コジロー達に見つからないように会場を抜け、一人観覧車の麓へと向かう。あたりには人っ子一人いない。夕日に照らされ寂しげに輝く、忘れ去られたモニュメント。
 亡霊達の王が――クリスが、事切れた場所。
 ゆっくりと石造りの階段を上っていく。
 小さく眉を上げる。階段の下からでは分からなかったが、人がいた。いつもと同じ黒いスーツに身を包んだ、黒髪の男。供えられていた白い百合の花束の前に座り込み、手を合わせ、瞳を閉ざしている。黒いリボンで纏め上げられた、真っ白な百合の花束。

「コジロー」

 声をかければ、コジローはこれといって驚いた素振りは見せずにゆっくりと、黒いワンピースに身を包んだ主人をその瞳に映した。

「お嬢も、ですか」
「……うん」

 忘れられてしまうのは、やっぱり寂しい。
 どうか、どうか忘れないで。
 過去の遺物になんかさせない、お願いだからここにいて。
 その願いは、痛い程分かる。きっと、王の存在など、時と共に忘れられてしまう。
 けれど、それは酷く悲しいことだ。
 人形達は、忘れ去られることを恐れた。選ばれないことを、そして何より、胡蝶に愛されなくなることを。

「私には、忘れない義務があると思う」

 コジローの隣にしゃがみ込み、胡蝶も合掌を捧げる。瞳を閉ざせば、思い浮かぶのは最期のクリスの姿。手を必死に伸ばし、胡蝶に愛を乞う、哀れな人形の最期の姿。

「――おかしいと思うかもしれませんが」

 伏せ目がちの黒い目が、真っ直ぐに百合の花を射抜く。

「俺は、マリアやクリスを、少し羨ましいと思う」

 見上げた先の横顔は、微笑みながらもどこか遠くを見つめていた。

「ううん」

 下された胡蝶の長い黒髪が、風に吹かれ揺れる。

「おかしくなんかないと思う」

 胡蝶の返答に、コジローは小さく頷くだけだ。愛されるのは、とっても悲しい。でも、忘れられるのはそれ以上に辛く、苦しい。
 人形達は夢の欠片。持ち主が忘れても、彼らは決して忘れない。投げ捨てたものも、諦めた過去も、大事に大事に、その胸の内にしまいこんでいる。
 人は、人形に数多の思いを託してきた。
 願いを、悲しみを、喜びを。そして数え切れないほどの呪いの言葉をも。

「ねぇ、コジロー」

 風の音は優しい。きぃきぃと、ゴンドラを揺らす柔和なメロディ。
 今なら、思い切った事も聞ける気がした。
 コジローの眼差しは柔らかい。恐ろしい気もする。けれど、この世界でなら多少のワガママは許される。ここは、人形達の夢の世界。主人を思う心が作り出した、優しい願いが生みだした場所。

「あの時、私のことを「胡蝶」って呼んだよね……? 」

 しばしの、沈黙。

「さて、行きましょうか」

 立ち上がったコジローは、胡蝶に背を向け、そそくさと階段を降りて行ってしまう。

「え、ちょっと、コジロー!?」

「気のせいだ。言葉のあやだ。忘れてください。あれは一時の過ちというか……とにかく忘れろ! お願いします!」

 必死に追いかけるも、コジローは立ち止まってくれない。ぶつくさと否定の言葉を連ねては、自分で自分の頭を殴りつけている。

「あ、胡蝶とコジローさん発見」

 そのまま胡蝶を巻き、コンサート会場へと戻ろうとしたコジローの前に立ちふさがったのは、喪服に身を包んだクロだった。黒い半ズボンのポケットからは、レンブラントの形見でもある拳銃がしまわれている。

「って、あれ。コジローさん、そんなにあわてて……あぁ、分かった。なぁんだ、そういう事なら邪魔者は消えるから、どうぞ二人でごゆっくり――」

「変な勘違いをするんじゃない」

「いったぁ!!」

 ニヒルな笑みを浮かべたクロの頭を軽く殴りつけ、コジローは足早に去っていった。
 思わず吹き出してしまう。レンブラントやマリアも、そんなことをしていたっけ。
 笑っているうちに、体の奥底から涙が湧き上がってきた。

「泣かないでよ、胡蝶」

 階段に座り込み、下を向いたまま動かなくなった主人に、クロは忙しなく視線を動かし続けていた。あたふたと手足を動かし、なんとか胡蝶をなだめようとするも、いい方法が思いつかなかったのか頭を掻き、そのまま胡蝶の隣に座り込んだ。

「コジローさんにも話したかったんだけど、まぁいいや。――あのね、胡蝶。僕、夢が出来たんだ」

 夕日を背に、小さな兎は妹とよく似た顔で笑って見せた。
 もうすぐ、夜が訪れる。
 歌姫のもたらした、穏やかな眠りの時間が。


******

「お前程度の腕前では……そうだな。そこにあるまち針三本が関の山といったところだな」
「なんでさ! って、おい! 返せよ!」

 コンサートのチケット片手に店を訪れたウサギの人形を、ロップは半笑いで冷たくあしらって見せた。ひらひらとチケットを揺らしながら、猫じゃらしのようにしてクロをからかっているのも、最早見慣れた光景だった。

 あの日、クロが胡蝶に語ってくれた夢。

「まだまだマリアみたいには成れないかもしれない。でも、レンとマリアの意思を受け継ぐのも、生き残った僕の大切な役目だと思うんだ」

 そう言って笑った兎は、十分立派な大人の顔をしていた。

「それに、歌って踊れる騎士(キャバリアー)って響きも、かっこいいだろ?」

 マリアがよくやって見せてくれた、目配せ。

「胡蝶はどう思う?」
「とっても、素敵だと思う」

 反対する理由はない。クロがそう望むのなら、胡蝶が止める権利はない筈だ。微笑みを返した主人に、クロは満足気に微笑んでいた。その姿に、胡蝶はマリアの魂を見たような気がした。 
 今はまだスターを夢見る仔ウサギに過ぎない。
 けれど、いつかその夢は花開くような気がする。少なくとも胡蝶はそう、信じていたかった。

 時の流れとは早いもので、あれからもう一月が経つ。
 失ったものは大きく、街の復興も完全に済んだとは言えない。今日もコジローは、壊れた建物の修理を手伝いに行っている。亡霊がすっかり姿を見せなくなった今、騎士(キャバリアー)達の仕事は、もっぱら人助けだった。迷子探しから始まり、今日のような建物の修繕作業まで、もはや騎士というよりは何でも屋に近いような気がするのは、胡蝶だけではないだろう。

 外はもう茜色に染まっているというのに、人々は楽し気に表通りを闊歩し続けている。

 この平穏がいつまで続くのかはわからない。
 人形と持ち主がいる限り、決して亡霊(ゴースト)がいなくなる事はない。王が消えれば、いつかは次の王(キング)が現れる。それが早いか遅いか。いつになるのかは、誰にも分からない。

「胡蝶! 胡蝶は聞きに来てくれるだろ!? 」
「もちろん」

 ほらみろ、とクロはチケットを奪い返し、ロップに向かって下を出して見せた。

「嫌われちゃったわね、ロップ」
「……うるさい」

 うふふ、と頰に手を当てた紬は楽しそうだ。

「そういえば、コジローくん遅いわねぇ」

 おもむろに、通りを眺めてみる。

「私、迎えに行ってきます」

 立ち上がり、紬の作ってくれた藍色のワンピースに身を包んだ少女は、茜色の空の下足を進めていった。
 未だに、コジローは胡蝶の問いをうやむやにし続けている。
 少しでも胡蝶が話題にしようものなら、咳払いし聞かなかった事にする。
 足取りに迷いはない。胡蝶は真っ直ぐに、コジローの元へ向かって歩き出した。
 訪れたのは、「サンドリヨン」の看板が下げられたネズミ達の雑貨店。扉を開けた瞬間、甲高いベルの音が胡蝶の鼓膜を揺らした。

「いらっしゃ――、なんだ! 胡蝶でチュか。旦那なら奥でチュよ」
「ありがとう」

 リーダー格の彼はドライ。それから

「ほら、もっとしゃきしゃき働くでチュ!」

 奥から聴こえてくる一層高い声が、紅一点のツヴァイ。

「そうでチュそうでチュ」

 はやし立てているのが、最後の一人ドライだ。
 最初は見分けが付かなかったが、最近は誰が誰か判別ができるようになってきた。
 このネズミ達とも、短くない付き合いになっているのかもしれない。建物の修理が終われば、コジローはベントゥーラの店に寄るついでに、この店から綿をもらってくる使命をロップに背負わされていた。記憶にある限り10回以上はこの店に足を運んでいるのだだから、実際の回数にすれば相当なものだろう。

「コジロー」

 カウンターの奥へと歩を進めれば、棚に腰掛けた二匹のネズミの人形にあれこれと指示を出され、ダンボールを担ぎ上げているコジローの姿が目に飛び込んできた。これも、もはや見慣れた光景だ。
 箱を棚へと置きながら、コジローの瞳は胡蝶へと向けられる。あの日以来、コジローはサングラスをかけることをやめた。亡霊と戦うことがなくなった今、彼に目をかばうものは不要だということなのだろう。

「……いつもすまない」
「すまないと思うなら、もっと早く仕事を終わらせてほしいでチュよね」
「そうでチュそうでチュ」
「お嬢、焼きネズミは好きか」
「冗談でチュ! 冗談でチュから! 」
「銃に手をかけるのはよしてほしいでチュ」

 あはは、と苦笑いがこぼれ出る。これもまた、いつものこと。
 騒がしくも楽しい、日常の一ページだ。
 いつものように、仕事を終えたコジローと店を出、夜の道を歩いていく。
 街頭に宿った炎が、二人の姿をうっすらと青色に染め上げている。

「あれからずっと、考えていたんだが」

 人通りの少ない通りに差し掛かった頃、唐突に、コジローがそんなことを口に出した。

「……俺なりに、気持ちの整理がついた。だから、ここではっきりさせておこうと思う」

 知らず、心臓の鼓動が早まっていた。目つきの悪い黒い目が、真っ直ぐに胡蝶の瞳を射抜いている。

「――胡蝶」

 あの日以来、意図的に避けられていたその名前。コジローの歩みが止まる。それに習い、胡蝶もその場で立ち止まった。あたりに人気はない。ただ、青い炎だけが輝いている。
 男の口からきちんと名が告げられるのは、これで三度目。一度目はコジローの家で敬称付きで、二度目はクリスとの別れの時、そして、今回が三回目。
 今までで一番、落ち着いた状況。けれど、心は比べ物にならないくらいザワついている。

「嫌ならはっきりと断ってくれ。嫌われる覚悟はしてきたつもりだ。……だから」

「嫌いになったりしない」

 コジローの手をそっと握り締める。大きな手だ。胡蝶の手のひらに収まる小さな狼の腕ではなく、何倍も大きい、大人の男のもの。

「絶対に。約束する」

 誰より近くで胡蝶を見守っていてくれた人。これまでもこれからも、コジローは胡蝶の味方でいてくれることだろう。一番の理解者、胡蝶だけの愛しい人形(ひと)。

「胡蝶」

 再度聞こえる、優しい響き。

 夢を、見ていた。
 覚めることのない、とっておきの優しい夢を。
 返す言葉は、もう決まっている。迷いはない。
 
 私は、この世界が好き。
 狐の人形が連れてきてくれた、都合のいい夢の国。
 辛いことだってあった。けれど、それは人間の世界にいた時も同じことだ。
 どんなところへ行こうとも、悲しいことはある。
 永遠なんてありはしない。どんなものだって、いつかは壊れる時が来る。

 だからこそ私は、前を向いて「今」を生きていきたい。
 
 月の光は暖かく、人形達の世界を緩やかに照らし出す。

 ここは優しい夢の国。

 人形達が恋焦がれた、主人のための理想郷。
 

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