アフタードールズ

19.嘆きの炎




 小梅の足音を背後に、ゆっくりと顔を上げていく。這いつくばったまま部屋の様子を見渡し、胡蝶はこれ以上ないほど目を見開いたまま動くことができなくなった。次いで訪れた、果てしのない嘔吐感。
 窓ひとつない倉庫のような部屋だった。丁寧にテーブルの上に飾られた五つの頭。どれも決して穏やかな顔とは言えず、頭以外の部品は最早原型を留めてはいなかった。強烈な生臭さだけが胡蝶の鼻を突く。ソーセージのように吊るされている腸は、全部で三本。どうして三本しかないのか。その先は考えたくはなかった。確実に、人形のものではない。彼らの中に詰まっているのは、ふわふわの真っ白な綿だけだ。
 だとしたら、これは――
 そこまで考えたところで、胡蝶は考えることをやめた。ただ無心で、湧き上がって来なものをぶちまけるだけ。赤、桃、肌色の海の中に、嘔吐物が混ざっていく。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

「自分の人形を捨てて、どこへ行くつもりだったの? ……酷いご主人様。「また」、アタシを捨てるつもり?」

 迫ってくる熱源。冷淡な声をした、着物姿の化け物。
 自身で傷付けた胡蝶の足首に出来た火傷を映し、口角だけを無慈悲に釣り上げていく。

「そんなの、絶対に許さない」

 床に突っ伏し中身をぶちまけた少女を、嘲り嗤(わら)う。

「今度こそ、アタシを愛してくれると思ったのに。……アンタには、期待してたのに」

 最後に咳をこぼし、胡蝶は恐る恐る背後を振り返った。少女は、笑いながら泣いていた。どこかから取り出した包丁を片手に、仮面の奥から炎を放ちながら。
 小梅も、きっとかつては誰かに愛されていた。だからこの世界にいる。人間が好きだから、主人を、心の底から愛したから。
 それなのに、受け入れてもらえなかった。彼女は言葉通り「捨てられ」たのだろう。だから、亡霊(ゴースト)になるしかなかった。もう一度自分を受け入れてくれる人を、探し求めるしかなかった。
 湧き上がってくるのは奇妙な同情心。怒りでも悲しみでもない。

「王(キング)には渡さない。狼にも返したくない。……アタシのものにならないのならいっそ……!」

 黒い、閃光だった。小梅が包丁を振り上げるのとほぼ同時。それは、胡蝶の前に立ち塞がった。
 黒いマントを被った男。深いフードのせいで、顔はよく分からない。どこから入ってきたのかも分からない、黒い影。

「キン、グ……」

 一瞬、小梅が怯んだ素振りを見せる。胡蝶に背を向けた男は一言も発することなく、ただその場に立ち塞がるだけだった。男か女かも分からない。
 これが、王。顔が見えないため何を考えているのかは分からないが、少なくとも今この瞬間、胡蝶を庇おうとしてくれているのは確かだった。

「嫌よ」

 震えながら、小梅が包丁を床に投げ捨てる。代わりにとばかりに、彼女の両方の腕は鎧のように赤い炎により包まれた。

「この子はアタシのものにする。アンタには、渡さない……!!」

 小梅が地面を蹴る。赤い閃光を纏い、王を焼き尽くそうとするも、王の動きの方が早い。小梅の動きを軽やかに交わし、すぐさま体制を立て直す。赤でも青でもない、黒い炎を全身に纏った黒ずくめの男。男が軽く指を鳴らすだけで、小梅の仮面が黒く燃え上がる。
 絶叫を上げ、小梅は下を向いたまま必死に自身の炎で黒炎を消そうとしていた。だが、消えない。毟っても抑えても、燃え上がるばかりだ。
 やがて、小梅の顔から仮面が零れ落ちる。

「自分は顔を隠したままのくせに、レディーの秘密を暴くだなんて……」

 金縁の仮面の奥には、何もなかった。小綺麗な顔の中、そこだけぽっかりと穴があいてしまっている。欠けてしまった陶器の壺のように、ただ穴の中から激しい炎だけが噴き出している。
 小梅が強く腕を払う。放たれた赤い炎を避ける際、フードがめくれ、一瞬王の顔が明らかになる。そこにあったのは――仮面、だった。
 白い仮面。表情の全てを覆い隠す、笑顔のオペラマスク。それは、強者の余裕の現われのようにも見えた。一瞬、王の視線が胡蝶に対し向けられる。安心させるようなそれに、胡蝶の方が呆気にとられてしまった。心底愛しいものを見るような、柔らかく細められた真っ黒な瞳。
 それからの出来事は、ほんの一瞬。
 とても、現実のこととは思えなかった。
 戦いでも殺し合いでもなく、演舞のよう。
 黒と赤が、交じり合いながら、ぶつかる。飲まれては飲み込み、盛り上がっては盛り返される。しばし拮抗した状況が続いていたが、やがて赤は勢いを失っていく。
 小梅が舌打ちをこぼす。だが、端から見ても小梅の不利は明らかだった。
 足元から徐々に、黒い炎に侵食されていく。
 足元を取られ、崩れ落ちたのが最後。一言も発さぬまま、王は無慈悲に小梅に火を放った。胡蝶の今までいた世界では見たこともない、黒色の焔。
 自分より上位の存在に抗ったところで、結果は分かりきっていた。
 赤い着物の女が悲鳴を上げながら、溶かされていく。
 一際高い絶叫が上がったのと、外で発砲音がしたのはほぼ同時のことだった。

「お嬢!! ご無事ですか!!」

 重低音の後、聞き慣れた声が胡蝶がいるのとは反対側の扉を蹴り倒し、室内に入ってきた。いつもの拳銃ではなく、フルオートライフルを担いだ狼の人形。息は荒く、心なしかサングラス越しの目も血走っている。
 胡蝶の姿を目に留めた瞬間、狼は深く安堵の息を吐いた。サイドから飛びかかってきた猫の人形を的確に撃ち抜いてから、大股に室内へと踏み込んでくる。
 胡蝶の足が赤く腫れ上がっていることに気付くと、コジローは武器を地面に投げ捨て、大急ぎで胡蝶の側に膝を付いた。

「お嬢、怪我を……!」
「……私は大丈夫。それより」

 先程まで王がいた場所に視線を向ける。が、誰もいない。
 亡霊の主人は跡形もなく姿を消していた。

「いや、嫌、イやいや、イヤ。まだ死にたくない。いやだ……!!」

 響いてくるのは今にも燃え果てんとしている小さな日本人形。そこに、先程までいた美少女の面影はなかった。古ぼけた、顔の右半分にぽっかりと穴が空いてしまっている、ボロの人形。黒い炎に包まれた、愛玩人形だったもの。

「王(キング)が、ここにいたのか」

 幾分落ち着きを取り戻したのか、口調も元にに戻っていた。
 黒い炎を見て察したらしいコジローに、胡蝶は小さく首を縦に振る。
 コジローのスーツの袖を掴みながら、胡蝶はぼそりと呟きを零す。視線は、小梅に向けたまま。

「……あの子は、もう助けられないの?」

 暗い目をして問う主人に、コジローはしばし言葉に詰まった。座り込んだままの胡蝶の足元に視線を移し、やがて、言いにくそうに口を開く。火花の音がばちばちと、小さく二人の鼓膜を揺らしていた。

「一度亡霊(ゴースト)に堕ちた奴を救うことは出来ない。……それに、あの状態では」

 小さな人形が、胡蝶に向かって短い腕を伸ばす。

「……抄子(しょうこ)」

 胡蝶を見て、確かに小梅はそう言った。

「抄子……! しょう、こ……!!」

 燃え盛る、黒い光。黒い雨が、降っていた。
 じっと、何かに取り憑かれたようにして、コジローはじっと小梅を見つめ続けていた。サングラス越しの目が、黒い炎を映し出す。

「行かないで……抄、子! アタシを、置いて、い、かない、で……!」

 それは、小梅の心からの叫びだった。彼女の、本当の主人。
 。同じ人形であるコジローにとって、これは彼が――否、コジローに関わらず、すべての人形が辿り着くかもしれなかった未来なのかもしれない。
 必要とされなくなった人形の、魂の叫び。
 彼女は胡蝶に、かつての主人の姿を重ねていた。胡蝶だけではない。きっと、今まで殺めてきた人間達にも、主人の姿を重ねてきた。そうして何度も違うと絶望し、裏切られたと殺めることしか出来ない。

「お嬢……?」

 突如、片方のツインテールを解いた胡蝶に、コジローが目を見開く。
 彼女の主人が髪を下ろしていたのかは知らない。それでも、最後くらい、いい夢を見させてやりたかった。
 クリスやコジロー、胡蝶の人形達が主人に幸せな夢を望んだように。
 もう片方のリボンも解き、コジローに渡す。足は震えと、火傷のせいで動かない。ならば、這って行くしかない。
 地面を手で蹴り、必死に前へと進む胡蝶を、コジローは止めなかった。
 炎の中から伸ばされた小さな手を両手で握りしめた瞬間、小梅の瞳が見開かれる。小さな小さな腕だ。赤ん坊のそれよりも小さい、人間が作り出した腕。
 眼前にいる長髪の少女に、小さな人形は泣いていた。

「……ああ。やっと……迎えに、来てくれたのね」

 最後にそんな言葉を残し、小梅は完全に朽ち果てる直前、確かに笑った。
 塵となり、炎が完全に消え果てた廃屋の中、胡蝶は小梅だったものを眺め、じっとしていることしか出来なかった。小梅が事切れたことにより、暴動も治まったのだろう。外は静かなものだ。だが、今日も日は暮れてしまう。

 亡霊達はどこからともなく現れ、夜の街を徘徊するだろう。もういはしない、自身の主人を求めて。二つの赤い月は、人形達の心の歪みの表れなのではないだろうかと、胡蝶は思った。白い霧は、決して晴れることない亡霊達の心象。

 人間と人形がいる限り、絶対に亡霊(ゴースト)がいなくなることはないだろう。それは、仕方のないことなのかもしれない。人の気持ちは簡単に変わってしまう。それは重々分かっている。
 きつく、歯を食いしばる。
 ならば、後始末くらいは自分達ですべきなのではないだろうか。自分はいらなくなったら捨てるだけ。人形に人形の処理を任せる残酷さを、胡蝶は身を以て実感していた。小梅だって、きっと好きでこうなった訳ではないのだろう。全ては人間の、胡蝶達の過ちだ。

 髪に隠れた顔からは、胡蝶の表情を伺い見ることは出来ない。

「あなた達を作ったのは私達。それなのに……。どうして、忘れちゃうんだろう」

 コジローが、渡された二本のリボンをきつく握りしめるのが視界の隅で見て取れた。
 この人は決して胡蝶を否定しないだろう。彼が胡蝶の人形である限り、胡蝶がコジローを、マリアやクロやクリスを忘れない限り、コジローは胡蝶の味方でいてくれる。大きく首を横に振る。
 耳のそばでコジローの声が聞こえた。後ろを向こうとする胡蝶を制止し、すぐ後ろに膝を付く。

「――皆、覚悟はしているんだ」

 胡蝶の解けた髪を結び直しながら、コジローは歌うように口ずさむ。遥か昔から伝わる、おとぎ話のように。

「人間は忘れてしまう生き物だ。それは仕方のないことだというのも、重々理解している」

 丁寧に髪を梳いていく。男の腕は優しい。胡蝶も止めようとは思わなかった。

「そうだな……作り出したものを捨て去ることが身勝手なのだとすれば、それを受け入れられずにいるのもまた、作られた側の身勝手だろう。俺は、そう思う」

 コジローがそっと手を離す。元に戻ったツインテールがそこにはあった。
 ちらりと背後を伺えば、満足気なサングラス姿の男が目に入る。
 作った側にも作られた側にも、同じように悪いところがある。だから、皆同罪なのだ。
 そう言う彼は、もし胡蝶から明確に「不必要だ」と拒絶された時、一体何を思うのだろうか。

「帰ろう。……足を、治療しないと」

 痛まし気に歪められたサングラス越しの瞳に、今度は胡蝶はこの世界に来て何度目になるか分からない「ごめんなさい」を零した。

「気にするな。お嬢は悪くない」

 生憎、歩けそうにはない。

「……その、おぶってもらっても」
「もとより、そのつもりだ」

 平然と返した狼に、胡蝶は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
 弾の切れたフルオートライフルの代わりに胡蝶を背負い、コジローは薄ら暗い街の中を闊歩していく。男の首元から煙草と、柔軟剤の匂いがする。
 安心した瞬間、急激に意識が遠退いていった。
 目を閉じれば、瞼の裏に飛び出してきた家の自分部屋が浮かび上がる。悪趣味なまでに少女的な、フリルだらけの部屋。人形とちゃちな細工品に囲まれた、優しい、胡蝶だけの牢獄。
 まだ空はほんのりと明るい。薄闇に染まりつつある空の下、街の中央にある観覧車だけが、場違いな光を放っていた。止まることなく、周り続ける。

 捨てられたもの達の宴まで、あと、もう少し。


 

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