アフタードールズ

12.お嬢と狼

「あ……」

 小さく声を漏らし、固まってしまう。再度瞬きを繰り返した後、胡蝶の眼前にいたのは愛しの人形ではなく、人相の悪い黒ずくめの男だった。
 どこにそんな体力があったのか、机の上にあった銃を即座に手に取り、胡蝶の眉間に対して突きつけてくる。その間、わずか3秒足らず。足元から驚くべき速さで血の気が引いていく。
 しかし、それ以上に顔を真っ青にしているのは、他でもない男の方だった。

「す、すみません!」

 銃を乱雑に書類の海へと投げ込み、悪人面の男はベッドの上で深々と頭を下げて見せた。バサバサ、ガラガラ。散らばった書類の山と投げ込まれた鈍器が、音を立てて崩れ落ちていく。

「お嬢に銃を向けるなんて……。どうぞ、煮るなり焼くなり、お嬢のお好きなように」

 声のトーンが本気だった。実際に胡蝶が命じれば切腹でもしそうな勢いの男に、胡蝶は激しく首を横に振った。

「待って! しない! に、煮ないし! それに、焼かないから!」
「しかし」
「いいから寝て! お願いだから寝てください!」

 しぶしぶといった様子で、男がベッドの上に横になる。胡蝶は心の底から安堵の息を漏らした。
 昼間見たサングラスは外されている。レンズがないだけ幾分かはマシに見えたが、人相が悪いことに変わりはない。狼の姿の時もなかなかに尖った目をしてはいたが、ここまでいかつい顔になるとは思わなかった。
 しかし、外見とは反対に男の腰は低い。「お嬢」と呼ぶ人相の悪い黒スーツの男。
 例えるならそう。まるで、極道の――。
 そこで、胡蝶は考えることをやめた。
 視線の元をたどれば、黒く輝く二つの目がじっと胡蝶を落ち着かない様子で眺めている。

「その……、怪我の方は……?」
「かなり良くなりました。今生きてられるのも全て、お嬢のおかげです。ありがとうございます」
「えっと……。ど、どう、いたしまして……」

 自分よりかなり大柄な男から、過剰にへりくだった口調で語りかけられるのも、それはそれで困惑してしまう。

「お嬢の方こそ。お怪我は」
「あ、うん。……平気」
「……それは良かった」

 寝転がったつり目がちの黒い目が和らぐ。釣られ、胡蝶も口角を吊り上げていた。存外にも、コジローは穏やかな男だった。少なくとも、胡蝶に危害を加えてくる様子はない。
 返事をしながら、胡蝶はスカートの上から自身の膝を覗き見た。

「……やはり、俺だけが休んでいるというのはお嬢に申し訳が」

 しばしの沈黙の後、そんな言葉を漏らしながら男はゆっくりと身を起こした。そのまま端に身を寄せ、コジローはかろうじて胡蝶一人が腰掛けられるスペースをベッドサイドに作り出す。

「え、でも」
「大した怪我ではありませんから。お嬢が気を揉む必要はありません。……どうぞ、汚い場所ではありますが、お掛け下さい」

 軽く右手でベッドサイドを叩きながら、コジローははにかんだ。包帯に包まれた左腕は未だ、動く気配がない。いくら治癒能力が優れているとはいえ、一日二日で治るものではないようだ。
 それでも近寄ってきた胡蝶の気配に気付くのは、コジローがキャバリアーである所以なのだろう。

「あの、コジロー……さん?」
「もっと気を楽にして下さい。どうぞ、いつもと同じように話しかけて頂ければ」
「……じゃあ、その、コジロー」
「なんでしょうか」

 大柄な殺し屋が瞳を輝かせている。引きつる口角を自覚しながら、胡蝶は恐る恐る口を開いた。

「出来たらでいいんだけど、その「お嬢」って呼び方は、やめて欲しいかなぁ……って」
「しかし、お母様の部下は」

 ぎくり、としてしてしまう。両親の仲がまだ良好だった頃、何度か二人の職場に遊びに行ったことがある。その時周りにいた大人たちは、上司の娘である胡蝶を「お嬢様」と呼び、胡蝶も当然のようにそれを享受していた。今考えればかなり小っ恥ずかしい思い出だが、まさか、自分の人形にその時のことを覚えられているとは思わなかった。母の会社にコジローを連れて行っていたことを心底後悔する。

「あれは、その……子供の時の話だから」
「では、なんとお呼びしましょう」
「……普通に。普通で、お願い。後、出来ればもうちょっと自然に話してくれた方が嬉しいっていうか」
「しかしお嬢」
「お願いだから!」

 頰に熱が宿る。そう何度も、成人男性から「お嬢」「お嬢」と連呼されるのは流石に恥ずかしい。はだけたYシャツの隙間から覗く胸板が生々しい。今のコジローは、到底胡蝶の知る狼の人形とは思えなかった。
 しばし首を捻った後、コジローは改まった様子でじっと胡蝶の瞳を射抜いた。

「では、胡蝶様と」
「……様も、いらないから」
「無理です! 俺にはそんな、お嬢を呼び捨てにするなんて恐れ多いこと……!」

 クリスとマリアは胡蝶の名を呼び捨てに。しかもかなり連呼していた、ということを教えてやったら、この男はどんな顔をするのだろうか。
 だが、二人のこと、特にクリスの話題を持ち出すのは得策ではない気がした。

「……じゃあ、せめて敬語はやめて欲しい」

 まっすぐに自信を見つめてくる胡蝶に、居心地悪そうに視線を逸らし、

「……お嬢が、そう言うのなら構わない……が」

 そう、バツの悪い顔で胡蝶の望む答えを返した。

「やっぱり、気に障らないか? 自分の人形に、その……馴れ馴れしくされるのは」
「ううん。こっちの方が、私は好き」

 二人は馴れ馴れしかったが、コジローは身を引きすぎている。胡蝶にそこまでする価値などないと云うのに。
 だが、嬉しいのも紛れもなく胡蝶の本心だった。頬を染めはにかんだ胡蝶の顔を、コジローは真っすぐ見ようとはしなかった。不服げに視線を壁に向ける横顔は、微かに赤らんでいる気がした。
 その時、外で雷鳴のような叫び声が聞こえた。それまでの柔らかさは何処へやら、黒い目を細め、コジローはベッドサイドのカーテンに手をかけた。
 ちらりと、コジローの背後から外を覗き見る。表通りを、一匹の犬の人形が彷徨っていた。目から赤い閃光を放っている、一体の亡霊(ゴースト)が。

「――ただの男爵(バロン)だ。心配いらない」

 震え上がる胡蝶を落ち着かせるように、小さな声を漏らす。
 ゆっくりとカーテンを閉め、コジローは溜息を吐いた。

「コジローは、いつもあれと戦っているんだよね」
「そうだな」
「……それも多分、私のせい……なんだよね」

 胡蝶がつけた「騎士(キャバリアー)」という設定が、コジローを縛り付けている。しかし、対するコジローの反応は冷めたものだった。声色とは反対に、表情は柔らかい。本当に、なんとも思っていないようだった。

「俺がやらなくても、誰かがやらなければならない仕事だろう。汚れ仕事ってものは。自分の身を誰かに任せきりにするくらいなら、俺は武器を手に取る道を選ぶ。それだけのことだ。だから、お嬢が気に病む必要はない」

 自身を「必要悪だ」という男に、胡蝶は首を小さく横に振った。

「……汚れ仕事なんかじゃないよ。少なくとも私には、正義の味方に見える」

 クリスの考え方は間違っている。庇護される側の人間は、誰のおかげで平和な暮らしが維持できているのかを、しっかりと自覚して生きるべきなのだ。

「正義の味方、か」

 噛みしめるように呟いてから、コジローは照れ臭そうにはにかんだ。

「お嬢にそう言ってもらえるなら、頑張ってきた甲斐はあったのかもしれないな」

 カーテンの微かに開いた隙間から、赤い閃光が部屋の中へと差し込んでくる。それは、テーブルの上に置かれた青い光と混じり合い、胡蝶とコジローの横顔をうっすらと染め上げていた。
 和らいでいく頰を自覚しながら、胡蝶はコジローの顔を見上げる。幾分顔つきは悪いが、こうしてみればコジローも他の人形と同じく整った顔立ちをしている。二頭身の狼の人形がこんな風になるというのだから、世の中まだまだ分からないことだらけだ。
 気の抜けた瞬間、それまではっきりしていた意識に嘘のように靄がかかり始める。小さく欠伸をこぼせば、微かに目に涙が滲んだ。

「お嬢は、いつこっちの世界に」
「……今日……かな」

 正確な時間の流れは分からない。人間界と人形界で時間の流れが同じだとも限らないのだ。

「……そうか」

 コジローが考え込むようなそぶりを見せる。再び湧き出した欠伸を必死にかみ殺すも、今度は勘付かれてしまった。

「……ごめん」
「無理もない」

 こぼされた笑みは優しい。

「今日はもう休んだほうがいい」
「……そうする。コジローも、おやすみ」

 立ち上がり、仄かに咲(え)む。この空間の中にだけは、穏やかな時間が流れていた。窓の外で、再び獣の慟哭(どうこく)が上がる。二つの赤い月と、白い霧に包まれた孤独な世界の中、主人を求め彷徨う亡霊たちの哀の音が。

「お嬢も、おやすみなさい」

 小さくうなずき、胡蝶は歩み始める。部屋を出る直前、再度背後のコジローを振り返った。
 そこにいたのは体躯のいいサングラスが似合う男ではなく、胡蝶のよく知る一体の狼の人形だった。先ほどまでここにいた男と同じく、壁にもたれかかるような体制で座った、小さな人形。
 こみ上げてくるのは、申し訳なさだった。踵を返し、再びベッドへと歩み寄る。胡蝶が近寄っても、恐る恐る触れても、今度は一ミリたりとも動きはしなかった。疲れていたのはコジローも同じ。それこそ胡蝶なんかよりよっぽど、この男の方が頑張っている。これまでも、そして今日だって。
 頭を枕の上に乗せ、そっと布団をかけてやる。穏やかな寝顔に、見ているこちらの頰までも、思わず緩んでしまう。

「ありがとう。……おやすみ」

 二度目のおやすみを告げ、胡蝶は今度こそ正義の味方の家を後する。
 雷鳴のように響き渡る絶叫が、心をチクチクと突き刺していた。

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