アフタードールズ

0.裏通りにはご注意を

 私たちは夢の欠片
 水底に沈むあなたの過去
 葬り去られたあなたの未来

 どうか、どうか忘れないで

 炎の海へと沈みながら
 それでも願わずにはいられない

 ああ、私たちのご主人様
 願わくば
 あなたの行く道が、末永く幸せでありますように

 *  *  *  *  *

 二つの赤い月が白い霧をうっすらと紅色に染め上げる、いつもの、なんら変哲のない夜のこと。

 訪れた人間たちからテーマパークのようだと揶揄される、昼間は賑やかな喧騒を見せる石畳の上には人っ子一人おらず、店にはシャッターが降り、家々の門も固く閉ざされている。
 建物の明かりはことごとく消え果て、街灯の明かりと真っ赤な月だけがチラチラと男の視界に、目障りにも映り込んでいた。
 草木も眠る丑三つ時。
 静まり返った夜の表通りから一歩入った路地裏に、その男は身を潜めていた。

 ぼさぼさの黒髪短髪、表情を覆い隠すブラックのフォックスサングラスに、黒のスーツ。スーツの内ポケットに収められた小型のピストルも、当然のように黒い。

 何も知らないものがこの男を見れば、十中八九こう思うだろう。
 マフィア、もしくは暗殺者、そうでなければ麻薬の売人だろうか。
 サングラスがなければもう少しばかりましだったかもしれないが、それでも、人通りのない夜道ですれ違いたくない人種である事は確かだった。

 薄赤に染まる濃霧に、煙草の白い煙が混ざっていく。
 独特の芳香を宿す白濁色の煙を口から吐き出しながら、路地裏に潜む男はただ敵の訪れを待っていた。
 赤煉瓦の壁に背を預けながら微かに顔をのぞかせ、視界の悪い通りを盗み見る。
 やがて誰もいなかった筈の通りに、小さくも鮮明な二つの光源が姿を現した。
 薄赤色の猫だった。天高く輝く月と同じ赤い光を双眸から発している二頭身の猫の人形が、男に気付くことなく夜の街をゆらり、ゆらりと二本の足で石畳の道の上を闊歩している。
 その度赤い閃光を、長い尻尾を妖しく揺らしながら。

 裂けたように大きな口からは、プスプスと、不完全燃焼気味の緋色の火の粉が飛び出していた。
 一見愛らしい猫の人形のように見えるそれは、徐々に男へと近づいてくる。

 未だ、男に気付いた素振りはない。

 懐にしまわれている拳銃に手をかける。知らず、煙草を咥える歯に力がこもる。灰が、音もなく地面に落ちた。
 標的までの距離、およそ二十メートル。
 腕を引き締め、安全装置を解除する。十五メートル。気付かれてはいない。
 構え、あとは撃つだけ。煙草を吐き捨て、男はスーツと揃いの黒の革靴で、何度もそれをしつこく踏みつけた。
 射程距離まで、あと三メートル。

 今——!

 トリガーにかけた指を引く。
 解き放たれた銃弾が亡霊のの腹部に命中にした。
 柔らかな生地に銃弾がめり込んだ瞬間、ボッと小さな爆発音を立てる。
 亡霊の赤と相反する青い炎が、着弾地点から勢いよく燃え上がった。
 未だ自分の身に何が起こったのか気付いていないのか、亡霊の口からは悲鳴と同時に赤い炎が激しくほとばしる。
 小さかった炎は腹部を中心に徐々に体を蝕んでいく。
 赤と青の炎は、決して相いることなく互いに反発しあっていた。
 さながら演舞でも踊るかのごとく、絡み合っては離れ、またぶつかる。
 猫の人業が悲痛な叫びを上げる度、ひときわ大きな爆発音を立て、青が赤の質量を超える。
 全身が炎に包まれた瞬間、耳障りな雑音が静寂の街を包み込んだ。

 燃える、燃える。焼き尽くされる。
 嫌だ、死にたくない。まだ死にたくない、いやだ、嫌だ嫌だ、嫌だ!!!

 業火にその身を焼かれた哀れな猫の人形は、青の中赤い炎をほとばしらせた目で男を捉え、離さなかった。たった今、自分の息の根を止めようとしている男を。
 男とて、仕事とはいえ相手に哀れみの情を抱かないわけではない。
 一歩間違えれば同じ運命を辿っていたかもしれない。いや、男だけではない。この街の住人全てにとって、決して無関係とはいえないのだ。

 最後の抵抗とばかりに、ブワッと裂けた猫の口から赤い炎が噴き出される。
 だが男までは距離がある。
 口から、目から、引き裂け、綿の飛び出した全身から。炎を吹き出しながらそれは地面を這い、必死に男との距離をつめようとしていた。

 ずる、ズル。
 ズルずル、ズル。

 ズルずるズるズル——ッ!!

 地面を這う度、猫の体の一部が地面に散乱した。
 白い霧の中、青い塊が、黒く焦げた綿と布を撒き散らす。
 片方の耳が燃え落ちたその断面からは、赤にとり変わるようにして青い炎が噴き出していた。

 必死に男との距離を詰めた亡霊は、男の足下に何としてでもしがみついてやろうとのたうち回りなお、口から炎を吐き続ける。

 あと一歩で一矢報いる事が出来る、その刹那。

「悪いな」

 再度、銃声が響き渡る。脳天を直撃だった。

 耳障りな絶叫が、天に届かんばかりの青い火柱が上がる。赤はもう、見えなかった。

 ボッ、ボッ、という数度の爆発音が響き渡った後、猫の人形はもう動かなくなった。あとはただ、焼かれるだけ。パチパチと音を立て、青い花弁が舞い上がる。破れた生地の隙間からは、ポロポロと焦げた綿がこぼれ落ちていた。


 見慣れた光景を視界の端に移し、男は胸元から一本、煙草を取り出す。同じく懐から取り出したライターで、「火傷」しないように慎重に蒼い焔を灯した。
 新たな煙草を口に加えながら、男は薬莢を地面に乱雑にぶちまけ、新たに弾を詰め直す。


 焦げていく、朽ちていく、崩れていく、壊れていく。

 やがて炎は小さくなり、男の足下には黒焦げの猫の人形の燃えカスだけが残されていた。

 案外呆気なかったなと、男は薄汚れた壁に再び背を預け、おもむろに月を見上げた。静かに口から煙を吐き出し、一仕事終えた余韻に浸る。いつもと同じ。赤い月と、白い靄。

 霧はまだ、晴れない。

 再度煙草を咥え直し、男はおもむろに壁から背を離した。
 そろそろ帰ろう。また明日の夜も、仕事が待っている。
 スーツの内ポケットに拳銃をしまい歩き出した途端、男の視界の端で赤い炎が輝いた。動揺から口元に咥えていた煙草が、無残にも地面に落ちる。
 勿体ないことをした、まだ吸いきっていないのに。
 落ちた煙草を拾う余裕もなく、男は舌打ちをこぼし、スーツの上から太ももに噛み付いてきた何かを必死に振り払った。

 それは簡単に地面に落下する。男の膝ほどまでしかない、二頭身の少女の人形だった。
 ケラケラと布製の巨大な口を開け笑うたび、抑えきれない火の粉が漏れ出している。蛍のように辺りを舞う赤い光。黒い毛糸で出来た髪を振り乱し、電池の切れたおもちゃのように笑う。


 つぶらな赤い目は実に愉快だといった様子で輝きを増し、嬉しそうに、足を激しく焦がした男の姿を映していた。


 地面に落ちて尚燃え続けているシガレットの煙が、霧の中男の鼻腔に飛び込んでくる。足元で勢力を増していく赤色が、男の焦燥を駆り立てた。まだ、歩けるうちに仕留めなければ。

 ここで燃え尽きるわけにはいかない。
 男には、全てを犠牲にしてでも待ち続け、会わねばばならない相手がいるのだから。

 だが焦ったところで状況は変わず、男の腿から広がった赤い炎はブスブスと鈍い音を立て、男の身を徐々に焦がしていた。


 男の焦りを見抜いてか、人形の口が一層釣り上がる。裂けた縫い目の端々から、抑えきれない炎が噴き出している。

 これはなかなかに面倒そうだ。

 舌打ちを零す。少女人形が次の挙動を取る直前に、スーツの内側から愛用の銃を再び取り出した。計三発。しかし相手も早い。
 男が打った弾を寸前のところで避けながら、一気に間合いを詰められる。
 屈強な力で地面を蹴り上げ、一瞬で宙に浮かび上がったかと思えば、即座に地面に着地し、またしても飛び上がる。バネのように、しなりながら。
 再度舌打ちを零したのも束の間、飛び上がった少女人形が男の左腕に噛み付いた。

 赤く燃え盛る自身の腕ごと吹き飛ばす勢いで、少女の脳天に残りの弾の全てを打ち込む。勢いよく上がった青い炎に包まれていく少女を渾身の力で振り払い、地面に叩き落とした。



 潰れたカエルのような叫び声を上げ、少女が路地裏のアスファルトの上を無様にのたうちまわる。
 口から悲鳴のようにほとばしる赤い炎が火の粉を上げ、顔をかばった男の右腕に直撃した。
 サングラス越しに再び燃え上がる腕に何度目になるか分からない舌打ちを漏らし、私怨も込め、再度装填した弾を二発、三発と、小さな体へ打ち込んでいく。
 男の周りだけが一瞬、濃青に染まった。

 絶叫の後には、急激な静けさが男に訪れる。少女ごと撃ち抜いた左腕には、青い火が灯っている。
 暑さも、痛みすらも感じない。
 無感動に視界に青を写しながら、男は未だ赤に染まっている左足に視線を落とした。
 躊躇うことなく一発、二発と足に打ち込んでいく。
 次第に赤は姿を消し、外敵を排除すると同時に青は小さな花弁となり、天高く舞い上がっては姿を消す。
 蛍の光のように舞う、視界を埋め尽くす小さな灯火を目に写しながら、薄汚れた路地裏の壁伝いに男はズルズルと座り込んだ。
 スーツが汚れるのも厭わず、だらんと機能しなくなった左の腕と脚を地面に放り投げ、残された片膝をつきながら、男はサングラス越しに霧の向こうの空を見上げた。
 胸元から取り出した煙草を口に咥え、かろうじてかすり傷程度で済んだ右腕でライターを握り、着火する。

 これくらいの傷ならば、縫い変えれば何とでもなる。
 しばらく休めば家に戻れる程度には回復するだろう。
 心配性の同僚からは怒られるだろうな。

 そんなことを考えれば、自然と嘲笑が浮かぶ。
 男は空を見上げたまま、ゆっくりと煙を吐き出した。
 何度瞬きを繰り返したところで、やはり霧はまだ晴れない。
 天に輝く二つの赤い月だけが、手負いの獣の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 目を細めれば黒いレンズと白い濃霧の向こう、ひときわ輝く電飾の光が飛び込んでくる。
 霧の中にあっても存在感を放つそれに、男は白い息を吐き出した。暗い街の中、観覧車が回っていた。
 場違いなまでにのんびりと、夜空に輝く星のように、まばゆい光を放ちながら。
 疲れたようにゆっくりと瞳を閉ざしていく男を、あざ笑うかのように。


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