地獄の底でふたりきり

6.灰吹きから蛇が出るT

 鏡張りの床の上、スカートの裾を握りしめ座り込む。広がるドレスの裾が、満開の黒い花のように見えた。天井を見上げても穴のようなものは見当たらなず、落下したにしては体のどこかが痛むということもなかった。
 しかしながら、鏡の中の自分の顔にはあからさまな落胆が滲んでいる。
 誰が好き好んでこんなところに戻ってくるというのか。
 溜息を一つ吐く。信じると言ったのは自分のはずなのに、いざ戻ってきてみれば気持ちは沈みゆくばかりだ。
 渋々ながらも膝に手を置き、立ち上がる。
 足は重い。こんな状況で前向きになれという方が無理な話なのだ。
 ドレスの裾を払っていると、視線の隅に白い影がちらついた。
 黄金色の目を輝かせ、蛇はまっすぐにイヴの姿を射抜いている。

「……まさかとは思うんだけど、本当にレボルト?」

 無理に釣り上げた口角が、ピクピクと痙攣を始める。
 とぐろを巻いた白い蛇は、肯定も否定もしなかった。無言で赤い舌を揺らすと身を翻し、床の上を這い進んでいく。

「あっ」

 振り返ることなく進んでいく蛇を、イヴはとっさに追いかけていた。伸ばした手は空を切り、捉えることなくすり抜けていく。這いながら進んでいるのだからさほど速度はないだろうと思っていたのだが、存外に速い。
 だがイヴを全く省みていないようで、蛇は時折振り返る素振りをみせる。どことなく気遣うような空気は感じるも、あくまで立ち止まる気はないようだった。
 迷いなく進んで行く蛇を見失わないよう、もつれ転びそうになる足を必死で動かし続ける。
 この際、あの蛇がレボルトであろうがなかろうが関係ない。そんなものは二の次だ。
 ここから出られるのなら、なんだって構わない。
 そう強く思うのと同程度に、ここから戻ってはいけないのだと相反する感情を抱く自分がいるのもまた事実だった。二度と会えなくなる、やっと会えたのに、もう絶対に離しはしない、勝手なことをしないで、帰りたくなんてない。
 イヴ自身恐ろしく思うほどの底知れぬ渇望が、鏡の中海色の瞳の底に沈み込んでいた。

(私は、家に帰りたい)

 帰りたいはずなのだ。
 自分の居場所はここではない。戻らなければいけない。
 楽園などという不明瞭な場所ではなく、正真正銘の家族が待つ我が家に。

(……名前さえ、思い出せないのに?)

 冷静に考えてみればおかしな話なのだ。
 学校でのことや家族との思い出についてははっきりと覚えているにもかかわらず、名前だけがぽっかりと抜け落ちている。それだけではない。ここにやってくる直前の記憶もないのだ。
 とても大切なことを、ずっと思い出せずにいる。
 鏡の迷宮を蛇に案内されながら、思考は迷走を続けている。足取りだけはしっかりとしているが、一向に思慮は鮮明にはならず、この道のように入り組んだままだ。
 深い溜息を吐き顔を上げれば、先ほどまでこちらを見向きもしていなかった白蛇の顔が目と鼻の先にあった。

「き、急に何」

 苛立ちの込められた黄金が、まっすぐにイヴを射抜いている。
 長い体を器用に持ち上げ舌を揺らす白蛇は、いまにもイヴの首筋に牙を突き立てんばかりの勢いである。
 煌々と輝く金の目は、「何が言いたい」と訴えるイヴの間抜け顔を呆れ混じりに見やると、あからさまに溜息をついて見せた。
 勝手にしろとでも言いたげに背を向け、蛇は再び黙って道を進み始める。動物園やテレビで見る爬虫類とは違い、この小さな案内人には奇妙な人間味があった。
 その姿は、どことなくいけ好かない金髪の男を連想させる。

「言いたいことがあるならはっきり言ってよ」

 黙って見つめられたところでむずむずするだけで、何も伝わってこない。
 だが、這い進むロープのような生物に問いかけたところで、相変わらず返事は返ってこない。どうも、これ以上のコミュニケーションをとる気は一切ないらしい。
 そもそも、口内の構造が人間のそれとは違う蛇に、人の言葉を操ること自体不可能なのだ。曲がり角を器用に身をくねらせ進んでいく蛇に従い、イヴも黙って足を進めていく。

 進めど進めど、現れるのは鏡の壁ばかりだった。
 いかに柱に施された宝飾がきらびやかなものであろうと、同じものの繰り返しでは飽きが生じてくる。白蛇と迷路の壁を交互に覗き見ながら、イヴは駆け足で道を進んで行った。
 何か想像でもすれば気分も上向くだろうかと頭を働かせると、今置かれている状況が不思議の国のアリスと非常によく似ていることに気が付いた。
 ウサギではなく蛇を追っているというのが、幻想をぶち壊しにしているような気はするのだが。

 日曜日の午後ウサギを追って穴に落ちたアリスは、不条理とナンセンスに満ち溢れた不思議な世界へと迷い込み、これまた摩訶不思議な住人たちに振り回されることになる。
 永遠に続くお茶会、わけのわからない詩やナゾナゾたちに、癇癪持ちの女王様。

(どちらかというと、この状況は「鏡の国」なのかもしれないけど)

 鏡の国のアリスの中で「名無しの森」に迷い込んだアリスは、自分や周囲の物の名前を忘れてしまう。森から出たアリスは名前を思い出すことができたが、それと同じように、この場所から出ればイヴも自分の本当の名前を取り戻すことが出来るのだろうか。
 その問いに、蛇は答えを返してはくれない。ただ出来るのは、出口まで導くと告げたレボルトを信じて、黙って前に進むことだけだ。
 右に曲がれば次は左、最初は二つだった分かれ道は一人と一匹が進むにつれ、数多の分岐へと枝分かれしていく。
 進めど進めど出口はなく、永遠に続くとも思える迷宮を蛇の案内人に連れられて進んで行く。

 何十回目かの角を曲がり、流石に変わらない景色に嫌気がさした頃、視界の端に人影が写り込んだ。
 鏡の中を、人影が通ったような気がしたのだ。
 おもむろに、イヴは足を止めた。先導していた蛇も、釣られるように歩みを止める。
 周囲に人影がないか視線を動かし確認した後、鏡の中を深く覗き込む。
 いくら慎重に見たところで、喪服姿で仏頂面の女と、同じく不機嫌そうな蛇が写り込んでいるだけだ。
 見間違いかと鏡面から目を背けたその時、再度、視界の隅に影がちらついた。
 白い、布だった。
 細長いリボンのようなそれが通り過ぎた先、鏡の奥に一人の女が写り込んでいた。

 目を見開き、言葉を発することも出来ずその場に固まってしまう。
 咄嗟に視線を這わすが、背後に女の姿はない。先ほどまで鏡に写り込んでいたイヴと取り変わるように、花嫁姿の女がじっとこちらを凝視している。
 純白のロングドレスだった。白いベールで隠されており顔を見ることはかなわないが、かろうじて口元に笑みを浮かべていることだけは認識できた。
 色とりどりの花で作られたブーケを胸の前で抱え、ショーウィンドウに飾られたマネキンのように、鏡に囚われた花嫁はじっとこちらを凝視する。

 恐る恐る、視線だけを足元の蛇へと這わせた。
 白蛇はイヴの視線に首を傾げはしたが、別段驚いたような素振りはみせなかった。
 それどころか、突如立ち止まったイヴに疑問を覚えているようだ。
 黄金の目が、妖しく輝く。

 無視すればいいのかもしれない。幻の類だと通り過ぎればいい。
 けれど、それを拒むかのように足がぴくりとも動かなくなっていた。
 鏡の花嫁はイヴの動揺を悟ってか、にっと不気味に口角を釣り上げる。
 湧き上がってきたのは、漠然とした恐れだった。
 レボルトの部屋で暗闇を覗き見た時とはわけが違う。今回は、身近に助けてくれる相手がいない。今横にいる蛇とて、見えもしない相手から救うことはいくらなんでも不可能なはずだ。

「——————」

 花嫁が声なき声を紡ぐ。蠱惑的な笑みを浮かべる彼女は、穢れなきベールの下で一体何を考えているのだろうか。

「はてさて、君には一体何が見えているのだろうね」

 突如横から聞こえた声に、体を盛大に震わせる。胸の前に腕を当て、イヴは反射的に声のする方をきつく睨みつけていた。
 それまで動かなかったのが嘘のように、体はイヴの意思を忠実に守る。

「どうしたんだい? そんなに驚いた顔をして。何も、僕を見たのは初めてじゃないだろう?」

 白蛇がいた場所に平然とした顔で立ちすくんでいたのは、レボルトの部屋に「イヴ」を探しにきたあの少年だった。黒髪短髪に、七五三のような黒いスーツ。見目と声色の割に、発される言葉はひどく落ち着き、大人びている。
 それよりも、少年はイヴがレボルトの部屋にいたことに気が付いていたのか。
 だとすれば、何故見逃してくれたのか。
 考えがまとまらず、イヴは無言になってしまう。

「ああ、もしかして突然現れたことに驚いているのかい?」

 うしろで腕を組み朗らかに笑む少年に、イヴは目を数度瞬いた。
 鏡の中に映るのは、イヴと少年の二人だけだ。花嫁の姿はなく、それどころか案内人の蛇すらもいない。似ているようで正反対の服装が並んで立っている様は、生と死の狭間のようだ。

「いえ、あの。……一体どこから」

「うーん、どう答えればいいものか」

 少年は腕を組み、わざとらしいまでに考え込んでみせた。
 口調も相まって、芝居がかったものが感じられる。

「ゆらぎを辿って」

「は?」

「……その様子だと、さっぱり伝わっていないか」

 少年の言う通り、イヴには何がなんだかさっぱりである。
 これまでもそれなりに訳のわからない状況に見舞われてきたが、この少年はその中心人物である。
 少年から敵意は感じられず、むしろ彼は好意的だ。
 危機感は湧かないが反射的に身構えると、少年は肩をすくめて見せた。

「……あの、レボ。……ここにいた蛇はどこに?」

「正確には彼がどこかへ行ったのではなく、君がここに来たんだ」

「ごめんなさい。意味が分からないんですけど……」

 眉をしかめ首を傾げてみせるイヴに、幼い少年は緩慢な動作で口元に笑みを浮かべた。

「ここは、一見同じように見えても先程とは違う道。君に用事があったものだから、少し強引にレボルトと引き離させてもらったんだよ。……レボルトからすれば、突然消えたのは君の方というわけだ」

 得体の知れぬ黒髪の少年は、人差し指を得意げに揺らしてみせた。
 少年は断言している。何もかもお見通しらしい少年に、隠していたのが馬鹿らしくなってくる。やはり、あの蛇はレボルトだったようだ。
 しかしこの少年とは面識もなければ、断じて何か用事があると言われるような仲でもない。
 そもそも、レボルトといい赤毛の男といい、そこまで執着される覚えは一切ないのだ。
 どうしてこの場所にはイヴのような凡人に執着する物好きが多いのか。

「すみません、人違いだと思うんですけど」

 こちらに用はない。面倒なことになる前に逃れられるのならそれに越したことはないと、イヴは引きつった笑みを浮かべながら後ずさり、看守からの逃亡を図った。

(私は家に帰る)

 暖かい我が家が、家族が、友人が、きっと帰りを待っている。
 勘違いに違いない。そうに決まっている。
 ここに来たのは何かの間違いだ。
 念じるというよりは自分に言い聞かせるように、イヴはひたすらにそんな言葉を反芻していた。

「人違いのはずがないよ」

 イヴの願いも虚しく、少年は何の気なしにさらりと吐き出す。
 そこに重みはなく、ただ淡々と事実確認をしているだけのようだった。

「そもそも代償を支払ったとはいえ、ただの人間がここに入れるはずがない。今この場所にいるという時点で、君はイヴに相違ない」

「代償……?」

 百歩譲って少年の探している「イヴ」が自分であるということは認めよう。
 名前に身に覚えがあるのも事実だ。呼ばれても抵抗感はない。最初から「イヴ」という名前だったような気さえしてくる。
 だが、代償などという大それたものを支払った記憶はない。フリルの縫い付けられた袖口を、ぎゅっと強く握りしめた。
 ——ただの人間ではないというのなら、一体何なのか。
 背を嫌な汗が伝う。

 少年が、意外そうに小さく目を見開いてみせる。
 ここに来て初めて少年の顔から笑みが消えるも、すぐに元の貼り付けたかのような微笑みに戻ってしまう。
 ただ、その目には先ほどとは違い明確な同情の色が滲んでいた。

「ここに来てしまった時点で、地上に君の居場所はもうないんだよ」

「待って。それってどういう」

「言葉通りの意味だよ。君は、地上での存在と引き換えに、ここに戻ることを選んだ。名を失っていることが何よりの証拠だよ」

 心臓の鼓動が早まる。足元からは血の気が引き、口から体の中身をまるごとすべて吐き出してしまいそうな、壮絶な吐き気に襲われた。
 足が震えている。そんなはずがない。

(名前を失った? それが、代償を支払った証?)

「ちが……。私は、忘れているだけで、なくしたんじゃ、少し、混乱しているだけで……。ここから出れば、すぐにでも」

 気丈な様を装って、無理やりに声を吐き出していく。
 無様に震えていることは百も承知だ。
 だが少年は無慈悲にも、微笑みを浮かべたまま首を横に振った。

「戻ったところで、名のないものは愛されない」

 名のないものは愛されない。

 だから、私が名前をあげる。
 他でもないあなたに、名前を付けてあげる。
 だって、私が好きだから。
 私が、呼びたいと願ったから。

 ドッドッドッ、と脈音が脳裏を支配する。

(何……? 今のは)

 自分の声が、記憶の中で覚えのない言葉を紡いでいた。
 酷く、めまいがした。鏡の世界が不気味に揺らいでいる。
 ぐらんぐらんと、気を抜けば吐き出してしまいそうなほどに。
 そもそも、これは本当に記憶なのか?
 幻聴の類だと信じたい。
 だがそれにしては、鮮明すぎる。
 身に覚えが一切なくとも、確かに誰かに告げたのだと、そんな気がしてくるほどに。

「ともかく僕は、他でもない君に用がある。君とは一度、個人的に話しておきたくてね」

 少年が、イヴの動揺を気にする素振りはない。

「あなたに、話すことなんてない」

 眉を吊り上げ、後ずさりながらも気丈に少年を睨みつける。
 少なくとも、少年はイヴより一回りは歳下のはずだ。
 それにも関わらず、黒い眼差しは得も知れぬ存在感を放っている。
 威圧しているという風ではないが、簡単に逃げることを許してくれそうにもなかった。