地獄の底でふたりきり

4.常山の蛇勢T

「ちょっと!?」

 急いでベッド下から這い出し、レボルトの元へと駆け寄る。しゃがみ込み顔を覗き込めば、男は苦虫を噛み潰したような顔で不器用に笑った。

「本当に、変なところで強情ですよね。……少しくらい、大人しくしていてくださいよ」

「十分大人しかったと思うんだけど」

 少しばかり覗き見はしたが、音は一切立てていない。
 自慢ではないが、かくれんぼは得意な方だ。

「あれで? だとしたら、とんだじゃじゃ馬ですね」

「減らず口を叩かない。ああ、もう。大人しくするのはあんたの方よ。すごい汗じゃない」

「誰のせいでこうなっていると」

「はぁ?」

 あからさまに顔をしかめた。
 熱でもあるのかと手を伸ばせば、反射的に振り払われてしまう。
 レボルトは一切悪びれなかった。

「放っておいてくださいよ。そのうち治りますから」

「……あっそ」

 拒絶に抗う意図を込めて、少女はレボルトの隣に膝を抱え座り込んだ。
 男の体が少し揺らぐ。だが、抵抗らしい抵抗は見られなかった。拒絶されている訳ではないようだ。

「ねぇ、レボルト」

 名を呼ばれても、男は驚かなかった。
 不機嫌混じりの諦め顔で、ふいと顔をそらすだけだ。

「……否定はしないのね」

 肯定もしてはくれないが。

 世界から閉ざされた白い部屋の中に、二人きり。
 真っ黒なカーテンに閉ざされた窓の下に座り込み、何を言うでもなく時を過ごす。
 聞きたいことはたくさんある。
 だが、それをずけずけと聞いてもいいものなのか。

 レボルトが自分のことを思って辛く当たっているのは、少女にも理解できた。その上で、知ってほしくないと思っている。必要以上に踏み込まず、何も知らないまま元いた場所に帰って欲しい。それがレボルトの望みであることは明白だ。
 だが余計なことを知って、それこそ少女がここに居座り続けるということを危惧しているのであれば、とんだ思い違いである。

(確かにレボルトには親近感を覚えるけど、元いた世界を捨てるほどじゃない)

 全てを投げ出してまで選ぶほど、愚かではない。
 少女にだって現実での生活がある。懐かしさを感じようが、身に覚えのない名前がしっくりこようが、眼前の男に愛おしいという感情が湧いてこようが、自分が自分でなくなってしまいそうな衝動に駆られたとしても、そう簡単に捨てられない。

 レボルトと夢見る前にいた場所での生活のどちらが大事なのか。
 そんなもの、天秤に掛けるまでもなく分かりきっている。

(仮に私が『イヴ』なのだとしても、譲れないものがある)

 夢ではないと言われても、少女には信じられない。
 誰がなんと言おうとも、真実がどうであれ。
 少女にとって、ここはあくまで夢の国。
 目が覚めれば消えてしまう幻想だ。

 しかし夢だからという免罪符に甘んじて、人を傷付けてもいいのか? と言われば、答えは否だ。レボルトの気遣いをずけずけと踏みにじってまで、愚かにも疑問をぶつけてもいいものなのか。

「……色々質問があるんだけど、聞いてもいい?」

 両膝を抱え込んだまま、ちらりとレボルトに視線を向ける。
 反応はない。
 一つ息を吐き、少女は抱え込んだ膝に顔を埋めた。

「ごめん、やっぱりいい」

 こもりがちの声が、鼓膜を揺らす。

「いいですよ」

 勢いよく顔を上げれば、辟易した様子のレボルトの横顔が飛び込んできた。

「聞きたいのなら聞けばいい。どうせあなたには逆らえないんですから」

「どういう意味よ、それ」

「別に」

 許可を出しておきながらも、男はどこか投げやりだ。
 もうどうにでもなれ。前髪を掻き毟る男の顔に、そんな文字が書かれているような気がした。

「じゃあ一つ目。……今の男の子、誰だったの?」

「男の子? そんなかわいらしいものじゃありませんよ」

 両方の眉をしかめ、あからさまに嘲笑を浮かべる。

「じゃあ、何なの」

「——守り手であり、導き手。もう一人の自分でもあり、無関係の他人でもある。喜びであり、悲しみ。光と闇の側面を持ち、圧制者であると同時に、解放者でもある。完璧な善人でなければ、悪人でもない。時に悪魔よりも残酷で、天使よりも慈悲深い。褒美と罰を与え、世界の秩序を守る者」

「ごめん、何を言ってるのか全然分からない」

 正反対の言葉がイコールになるわけがない。
 秩序だとか解放者と言われたところで、全くもって現実味に欠けている。
 というより、むしろ胡散臭い。怪しい宗教の勧誘のようだ。

「でしょうね。俺にも分かりません」

 笑い混じりに、レボルトは肩をすくめて見せた。

「それで、二つ目は?」

「楽園って何? この部屋は楽園の一部なの? だとしたらさっきまで私がいた鏡の間は何? どうして扉の外には何もないの? あの男の子はどうやってここに入ってきたの?」

「……一気に聞かないでくださいよ」

 調子付いて顔を覗き込めば、レボルトは深くため息を吐く。
 ちらりと、男の横顔を盗み見る。
 どう少女に説明したものか、真剣に悩んでいるようだった。
 消耗している人間には、なかなか酷なことを聞いてしまったのかもしれない。

(それにしても、本当に綺麗というか)

 見れば見るほど整った顔をしている。イケメンではなく、美人と形容する方が相応しい。
 決してナヨナヨしているという意味合いではく、口を開けばそれなりに低い声が発せられ、体格は細いとはいえ完全に男のそれだ。

 現実では、間違いなくお近づきになれないだろう人種。
 それなのに、今は隣に座っている。
 しかも床の上に、幼い子供のように膝を抱えて。

「——まず」

 レボルトが口を開く。

「あの子供に関しては、考えない方が賢明です。世の中には説明できないものも存在するんです。どうやってここまでの道をつないでいるのかなんて、俺にも分かりません」

 先ほどの説明といい、本当に曖昧な存在なのだろう。
 意味不明な世界なのだから、追求する方が愚かというものだ。
 無言で頷くと、レボルトは残された疑問への回答を口にした。

「それで、あなたが先ほどまでいた場所ですが、あの場所は『楽園』ではなく、単なる『道』です」

「それ、漠然としすぎていない?」

 見れば分かる。文字通り『道』、鏡張りの迷路だ。
 だが、こんな不思議な場所にある迷宮が普通なわけがなく、いきなり人が現れるわ、形が変わるわで、思い出すだけで眩暈がしてくる。

「『楽園へ至る道』とでも表現しましょうか。あの場所は、楽園と地上の間。本来交るはずのないものが、出逢うかもしれない場所」

 じっと、レボルトの顔を凝視する。
 交るないはずのものが出逢う場所。
 その言葉に、強く胸を締め付けられたような気がした。

「そんな中途半端な場所だからこそ、俺はあなたをここに連れて来ることができたわけですが」

 楽園に戻られてしまえば、俺にはどうすることもできません。
 そう一人ごちるレボルトに、疑問符を投げかける。

「じゃあここは、『楽園』でも『道』でもないの?」

「補足すると、地上でもありません」

「……じゃあ、ここは何?」

「どこでもありません。俺は禁を犯した。だから王の怒りを買って、楽園にも地上にも行くことを許されず、こんな場所に隔離されているというわけです。……考えるなと言いましたが、強いて言うのならば、あの少年は看守みたいなものですかね」

  咎人、禁を犯した、王。分からない単語の羅列だった。

「……王って、一体誰なのよ」

「言葉通りの意味ですよ。王は王です」

 そっぽを向いた男は、そう淡々と言葉を零した。
 それ以上王という人物について説明してくれる気はなさそうだ。
 一体彼は、その「王」という人物の「怒りを買う」ほどの何をしたというのだろうか。
 レボルトの瞳を凝視する。その理由を、少女は知っているような気がした。

「本来、俺はここから出ることのできない存在です。ただし、何事にも抜け道はある」

 深刻に思い悩む少女を尻目に、男は淡々としている。
 事実を並べ立てているだけで、特に自身の境遇に関して、何らかの感情を抱いてはいないようだった。

「抜け道って……一体何をしているのよ」

「色々あるんですよ、色々」

「ふーん」

 空返事を返す。一瞬レボルトの瞳が不穏に光ったのを、少女は見逃さなかった。

「私をここに連れてきたのも、本当ならしてはいけないことなのね」

「細かいことはいいんですよ、細かいことは」

(全然細かくないでしょうに)

 多少なりとも、あの少年はご立腹だった。
 道で少女を導こうとしていた青年も、怒っているのではないだろうか。

「あ、そうだ。そういえば、あの赤毛の人って——」

「黙秘します」

 言い切らないうちに、レボルトは顔を背けた。
 頬杖をつき、断固として少女の顔を見ようとはしない。
 あの男が何者なのか、少女には皆目見当もつかない。
 レボルトは、あの男を少女から遠ざけたいと思っている。
 それこそ「してはいけない」ことを冒してまで、この部屋に匿うほどには。

「どうでもいいことは覚えているくせに。……能天気と言うべきか、馬鹿と言うべきか」

「ちょっと? 聞き捨てならないんだけど?」

 膝立ちになりレボルトの両頬を掴んで、無理やり顔をこちらへと向けさせる。
 半目で睨みつければ、レボルトは居心地悪げに視線を逸らした。

「……本当のことじゃないですか。だいたい、あなたときたら自分やあの男のことには無頓着なくせに、どうして俺なんかに構いたがるんですか! どうでもいいでしょう!? 俺の苦労をなんだと思っているんですか!」

「あんたの苦労なんて知ったこっちゃないわよ! こっちだって、なんであんたにばっか親近感が湧くのか不思議で堪らないの!! 自分だけ被害者面しないでもらえる!? ていうか、助けたのはあなたの勝手でしょう!?」

 レボルトはぐうの音も出ないようだった。
 少女の方も最初はすっきりしたものの、次第に言いすぎたかと後悔の念に苛まれ始める。
 頬から手を離し、少女は再び膝を抱え縮こまった。

「ごめん。ちょっと言いすぎた」

「……他に質問は? 言っておきますけど、あの男に関して俺から言うことはありませんから」

「分かったわよ。そこまで言うなら何も聞かない」

「知っていれば、あなたはもっと必死になっていたでしょうに」

「悪かったわね。能天気な馬鹿女で」

 下した評価をそのままぶつけてやれば、レボルトの眉間に皺が刻まれた。
 なかなかからかい甲斐のある男だ。

「……それで? 結局楽園って何なのよ」

 強く、膝を抱きしめた。
 一番聞きたかったことの答えを、レボルトからまだもらえていない。
 答えを後回しにしてはぐらかすつもりかもしれないが、そう簡単に騙されてはやらない。
 痛いところを突かれたとばかりに、レボルトはあからさまに困惑を露わにする。
 しばし考えあぐねているようだった。

「檻、ですかね」

 悩んだ挙句飛び出したのは、酷く簡素な答えだった。

「あくまで俺の個人的な感想ですが」

 レボルトにとってのこの部屋のように、少女にとっては楽園こそが檻なのだという。

「……私が、『イヴ』なのね」

 レボルトは、否定も肯定もしなかった。
 少年と赤毛の男が探し求めているのは「私」であり、同時に「イヴ」なのだ。
 今までの言動を整理すれば、自然とその結論に辿り着いた。

「理由はともかく、あなたは私に楽園に戻って欲しくない。そのための協力は惜しまない。……要するに、そういうこと?」

「察しのいいことで」

「察しが悪くても気が付くと思うんだけど」

 どこからどう聞いても、皮肉にしか聞こえない。
 レボルトは戸惑いの色を滲ませ、諦めたように苦い笑みをこぼした。