「黒い獣は愛する人の夢を見るか?」【後編】


※本SSは前・後編の後編です。先に前編をお読みください。
前編→【SS・前編】黒い獣は愛する人の夢を見るか?【えみりちゃんのいぬ】


【SS・後編】黒い獣は愛する人の夢を見るか?【えみりちゃんのいぬ】
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(仕事、大変そう……)
 
 夢だと分かってはいても、くたびれた様子で一生懸命仕事を片付けているくろを見ていると、どうにも少しくらい手伝いたいという感情が湧き上がってきてしまう。

(でも今の私はただの犬だし、……こうやって見守ることしかできないというか……)

 手を出したところでパソコンを壊すか、書類をぐちゃぐちゃにしてしまうこと請け合いだ。
 しばし、落ち着きなくくろの作業を見守っていたところで、唐突に風呂が沸いたことを知らせるチャイムが鳴り響いた。
 くろが、顔を上げる。

「……続きは、風呂に入ってからにするか」

 時計の音だけが鳴り響く、静かな部屋の中で。
 食事もせずに作業を続けていた男は、手を止めると、誰に言うでもなく前を向いたまま呟きを漏らした。

(……いってらっしゃい)

 眼鏡を外し風呂へと向かおうとするくろを、咲里はソファーの影に隠れ見送る。
 疲れ目は、温めるのがいいのだという。先ほどから何度も眉間の皺をほぐしていたし、風呂に入ることで少しでも疲労が軽減されればいい。

「……あ」

 リビングの扉を開け出ていこうとする寸前、不意にくろが動きを止めた。ドアノブを掴んだまま、中途半端に開いた扉を背に、真っすぐに咲里を見つめる。

「あんたも一緒に入るか」
 
(え……?)

 口元で弧を描きながら告げられた言葉に、咲里はフリーズした。
 
(一緒に入るって、この状態で……?)

 風呂に入るということは、それすなわち、くろに全身を洗われるということであり。

(……さっき、撫でられるだけでも、気絶しそうだったのに?)

 毛の隙間を縫い、地肌へと触れた男の指の生々しい感触を思い出し、身悶える。くろからすれば犬の体を洗うだけなので、どうということのない愛玩の延長かもしれないが。

(む、無理……)

 「風呂」「洗う」という単語に、咲里はくろに全身を洗われた時――初めて体を重ねた時のことを思い出す。
 全身を呪いのように這いまわる、節くれだった指。耳元で囁かれ続けた甘やかな己の名。自分の中に、自分ではない何かが入り込んでくる生々しい熱の感覚。
 そのすべてに。瞬間、咲里は大声を上げながら部屋を走り回りたい衝動に駆られた。
 ――実際には、痺れを切らしたくろが近寄って来るのを、小刻みに震えながら後退するのが精いっぱいだったのだが。

「どうした。いつも、一緒に入ってるだろう」

(いつもって言うほど、一緒に入ってない……!!)

 初めての時と、温泉旅行に出掛けた時くらいで、あとは一緒に入ろうと詰め寄られても頑なに拒絶している。その度言葉にはしないがあからさまな懇願の色を浮かべる男に、全く心が揺らがなかったかといえば嘘になるが、咲里にも意地がある。
 しかし、それはそれとして。

(い、今のくろの中では……、わ、私はあなたの飼い犬かもしれないし、い、一緒にお風呂に入るのが当たり前なのかもしれないけど、私の中身は私のままっていうか……っ、あの、私にはちょっと、難易度が……!)
 
「捕まえた」

 力強く両前足の下にくろの腕を差し込まれ、咲里は思考停止した。
 いくらもがき抗おうとも、小さな体は簡単に抑え込まれてしまう。

「あまり抵抗されると、落ち込む。……大人しくしてくれ」

(お、落ち込むとか言われても……!)

 これが仮に夢だとしても、もう一度あんな羞恥を味わうだなんて耐えきれない。
 風呂場へ向かい迷いなく歩いていく男の腕の中で、咲里は限界を迎えつつあった。熱い。一度は収まったはずの感覚が、咲里の中を駆け巡る。
 シャツ越しに伝わるくろの熱も、自身の体温も、世界を包む空気も。
 何もかもが、熱い。暑い。熱いのか、暑いのか。そんな単純なことですら分からなくなる。

「咲里……?」

 ああ、もう、だめ……。

「咲里!?」

 以前どこかで聞いた覚えのあるくろの素っ頓狂な叫びを最後に、咲里の意識はぱたりと途絶えた。


*****


「38度5分」

 ベッド脇に椅子を置き腰掛けるくろは淡々と言い切ったのち、ため息を吐いて、体温計をサイドテーブルの上に置いた。プラスチック製の体温計の入れ物が天板に当たるカランという軽い音が、静寂に包まれた部屋の空気を微かに乱す。
 口を開く男の顔には、心配以上のあからさまな呆れが浮かんでいた。

「……風邪だな」

「……だよね」

(そんなことだと思った……)

 寝そべる咲里を見る男の服装はスーツではなく、最近となっては見慣れた白のセーターに黒のスラックス。
 恐る恐る視線を向けた先の自身の手足は、犬ではなくきちんと人間のものであるし、声もちゃんと発することが出来る。熱のせいか視界はぐらついているが、それ以外には目に映る景色に違和感はない。いつも通りの寝室の光景だ。窓の外、雪が降り始めた夜の闇を視界の隅に収めながら、咲里は安堵の息を吐く。

(本当に、夢でよかった……)

 だが夢にしては変にリアリティがあったというか、心臓に悪かったというべきか。少なくとも、くろとともに浴室に突入する前に目が覚めたことに心底安堵している。

「風呂上がりにろくに髪も乾かさず、毛布も何も掛けずに、ソファーなんかで寝るからだ」

 咲里の思考を中断させるようにして、くろはため息交じりに口を開いた。腰掛けたまま微かに身を乗り出し、手の甲で熱を帯びた咲里の額に触れる。いつもは温かく感じるくろの体温が、今ばかりはひんやりとしたものに感じられた。
 鋭さを帯びた黒い目が、まっすぐに咲里を射抜く。温和な所作に、ほんの少しの刺々しさを滲ませて。

「熱い」

「……ご、ごめん、なさい」

「あぁ。……少し目を離した隙に、ソファーの上で赤くなってうなされてるあんたを見て、俺がどんな気持ちだったと思う。前、温泉で倒れた時にも思ったが、あんたはもっと自分を大事にするべきだ。……危機管理が、なってない」

「……はい」

(おっしゃる通りです)

 家の中は暖かいのだし、少しくらい睡魔に負けてもいいだろうと思った自分が愚かだった。
 死んだ飼い犬に、至極真っ当に諭されてしまう程度には。

「次からは、気を付けます」

「そうしてくれ。……以前、あんたは俺を「魔法使い」だと言ったが、俺はそんなに万能じゃない。病は、治せない。……だから、倒れられると困る」

(……意外、かも)

 ぼーっと、饒舌なくろの姿を見ながら、咲里は内心そんなことを思う。
 しかし、本人の口から事実を告げられると納得すべき点は多かった。

(だから、前温泉で倒れた時もあんなに焦ってたんだ)

「そう、なんだ」

「ああ」

 去り際咲里の前髪を軽く搔き乱し、くろはゆっくりと額から腕を離した。代わりとばかりに、男は濡らしたタオルを横たわる咲里の額に置く。
 温和さを取り戻した瞳に、説教の時間が終わったことを悟らされる。
 自然と、咲里の肩から力が抜けていった。

「咲里。昼、何か食べたいものはあるか?」

「……あんまり、食欲なくて。……今は」

 いらない、と口にしようとして。
 「食え」、と見上げた先の瞳が再び無言の圧を帯びるのを認識した瞬間、咲里はボソボソと控えめに呟きをこぼした。
 くろの瞳に、穏やかさが舞い戻ってくる。

「……おかゆ、だったら食べれると思う」

「分かった」

 言いながら、くろが席を立つ。
 いつも以上に甲斐甲斐しく動くくろの姿を、咲里は寝そべったままぼんやりと見つめていた。
 しばらくすると、くろがトレイ片手に部屋に戻ってきた。
 サイドテーブルの上に置かれた盆の上には、至って普通の卵入りの粥が乗っている。

(普通の食べ物が出てきた)

 当たり前なのだが、おかしな夢を見た手前、頓狂(とんきょう)な感想が浮かんでしまう。目が、点になる。

「咲里?」

「あ、……ご、ごめん。なんでもない」

 挙動不審をごまかしながら、咲里はゆっくりと体を起こしていく。

「ちょっと、変な夢を見たから」

「……夢?」

 きょとんと首をかしげるくろの顔を見つめたまま、咲里はしばし躊躇する。
 だが、続きを促すように無言のまま咲里の瞳を射抜き、ベッドに前腕をつき、座ったまま身を乗り出した男に、咲里は渋々覚悟を決めた。
 視線を逸らしながら、のろのろと口を開く。

「馬鹿げてるって、思われるかもしれないっていうか。……あんまり面白い話じゃない、と……、思うん、だけど」

「構わない。あんたの話を聞くのは楽しい。……少なくとも、つまらないとは思わない」

 微笑みを浮かべ、くろはそっと咲里の顔にかかった髪を指先で払いのけた。肌をかすめた熱に、少しだけどきりとする。

「……その、くろは犬で、……私が一応、飼い主ってことになると思うんだけど。夢の中では、それが逆になってたっていうか。……私が犬で、くろが飼い主だったっていうか。くろが普通に家に書類を持って帰って、パソコンを使って仕事をしてるし、私に、ドッグフードを出すし。それで、目が覚めてからも……ちょっと一瞬、混乱しちゃって」 

 風呂に入れられようとしたことは、意図的に省いた。
 咲里が犬であろうが人間であろうが、くろは咲里を洗おうとする。
 そんな状態で風呂の件を口にすれば、せっかくここまで阻止してきたのに、何かの拍子で一緒に入るという流れが生まれてしまいそうで恐ろしかったのだ。

(お風呂には、あんまりいい思い出がない……)

 いい思い出がないというよりは、恥ずかしい記憶しかない、という方が正しいのだが。とにかく、風呂の話はもういい。

(……絶対、変なことを言ったって思われてる)

 怯え交じりに、咲里はくろの顔に視線を戻していった。
 だが、想定外に大真面目な顔をして何事かを思案するくろに、咲里は小さく目を見開く。しばしの沈黙ののち、ふっと、微かに男の口角が吊り上げられた。

「俺が主で、あんたが犬、か。……俺が、あんたを飼うのか」

 胡乱な黒い瞳に危うげな愉悦の色が滲むのを認識した瞬間、病床の背にぞくりと震えが走る。
 どれだけくろの立ち居振る舞いが人間のそれに近付こうとも、今だって飼い主はあくまで咲里のはずだ。威厳がないのは承知であるが、くろも咲里を飼い主として認めてくれている。むしろ、それ以上の存在として大切に扱われている。
 だからこそ、咲里は容易に引きちぎられてしまいそうな、か細く弱い、形ばかりのものであったのだとしても、人の手には余る人外の魔――くろの手綱を、一応は握り続けられている。

 平和ボケした日々の中で、こうして壊れ物に触れるかのように甲斐甲斐しく世話をされていると忘れてしまいそうになるが、くろは本来「良くないもの」だ。学校を丸ごと消し炭にしたことが、なかったことになるわけではない。
 言い知れぬ不安が、咲里の足元から這い上がってくる。
 
「その、言い方は、……ちょっと」

「どうして? 間違ってはいないだろう」

「確かに、そうだけど」

 ――なんていうか、いけない、感じが。

 続きを口にしようとする咲里を阻むようにして、それまで髪に触れていたくろの指先が、ほのかに咲里の首筋をかすめた。触れるか触れまいかの瀬戸際、弄ぶようにしてなぞられる感覚に、ただでさえ熱を帯びた体が一層ほてり始める。
 妖しく輝くくろの瞳から視線を逸らしたくて、けれど、逸らせない。
 暗い色に、呑まれる。熱病に侵された身体では、特に。

「あんたがもし、俺の飼い犬だったのなら。……ずっと、あんたを独り占め出来たのにな」

 見上げた先の男の危うさに、いくら咲里に従順でもその根底は魔性なのだな、と実感する。
 現状だって、咲里は半ばくろに飼われているようなものだ。主導権が一応は咲里にあるのだとしても、くろの庇護なしに咲里は生きていけない。金銭的にも、心理的にも。この小さな家の中だけが、咲里の世界を構成するほぼ全てといっても過言ではない。

「……誰にも触れさせたりしない。傷付けさせたり、しない」

 咲里の頬――傷があったはずの場所を指の腹でなぞりながら、男はうっそりと笑う。

「この家の中で、あんたはただ俺の帰りを待っていればいい。……ああ、いいかもしれないな。……あんたはどう思う」

 くろの指先が、耳の後ろへと回される。
 ――くろに告げられた情景を想像して、咲里は静かに息を呑む。
 以前、くろは言った。
 俺にはあんたしかいない。あんたにも俺しかいない。それでいいだろう、と。
 くろが望むならやぶさかではない、このまま物理的に首輪を嵌められ、飼い殺しにされたとしても構わないと考えてしまうあたり、咲里も相当毒されている。それとも、病で気が弱っているから物騒な方向に流されようとしているだけなのだろうか。
 いずれにせよ、退廃的な発想であることに変わりはなく、あまり褒められたものではない。
 
 どう返答しようかと咲里が微かに口を開いたのを合図に、くろの手はあっさりと離された。去り際宥めるように咲里の肩に触れ、くろは温和に笑う。

「冗談だ」

 肩をすくめる男の所作に先ほどまでの物騒さはなく、だからこそ、あまりの変わり身の早さに困惑させられる。
 
(冗談にしては、ちょっと目が、本気だったような……)

 実際、本気に見えた。くろならやりかねない。そう思わせる迫力があったのは確かなのだが。

「粥(かゆ)」

「か、かゆ……?」

 淡々とくろの口から飛び出した単語、唐突に戻ってきた日常に、咲里は拍子抜けした。

「ああ。冷める。早く食った方がいい」

 いいように、からかわれたのだろうか。
 だがくろが言うことも尤もなので、咲里は大人しく従うことにした。
 せっかく作ってくれたのだし、温かいうちに食べた方がいいに決まっている。
 そう思い、サイドテーブルに置かれたスプーンに手を伸ばすのだが、咲里が手にする寸前、くろの腕がトレイの上からスプーンを奪い去った。
 そのまま粥の中身をすくい、くろは自然な動作で咲里の口元にスプーンを差し出してくる。
 無言でぐっと差し向けられたものに、咲里はボソボソと小声で抵抗を示した。熱はあるが、自分でものが食べられないほど意識が混濁しているわけではない。

「……自分で、食べられる、から」

「……嫌なのか?」

 傷付いたような言い回しに、言葉に詰まってしまう。
 
「いつも思うけど、その言い方は、……ちょっと、ずるい」

「そうかもな。……だが、こうでもしないと、あんたは俺に世話を焼かせてくれないだろう?」

 困ったふうに言われては、咲里は口を噤むことしか出来ない。
 あからさまな哀願の目に、咲里は心底弱かった。

「最近、あまり頼ってくれなくて寂しい」

(今日のくろはいつにも増して、押しが強い気がする……)

 押しが強いというべきか、いつも以上にからかわれているというべきか。どっちみち、遊ばれているということに変わりはない。
 心配を掛けてしまって、更にはこうして献身的に看病してくれていることに関しては、負い目しかないのだが。

「私、……くろのそういうところ、ずるいと思う」

「……それは、お互い様だろう」

 拗ねて見せたところで、くろは意にも介さない。
 ただ上機嫌に微笑み、咲里を見守るだけだ。

「咲里」

 穏やかに名を呼ぶ声に、咲里は渋々覚悟を決めた。
 羞恥に駆られながら瞳を閉ざし、口を開き、粥の乗ったスプーンの訪れを待つ。目を閉じていても、見られているのがよく分かる。
 一口食べたのち、咲里はそろりと瞼を押し上げていった。見上げた先の黒い目が、満足気に細められる。

「あ、あとは、……自分で食べます」

「そうか」

 視線を逸らしながら呟けば、あんなにも食い下がっていたのが嘘のように、くろはあっさりと引き下がった。
 咲里の反応を一通り堪能すれば、それで満足らしい。日に日に横暴さを増していくくろに脳内で文句を吐きながら、咲里はくろの腕からスプーンを受け取った。消え失せていたと思っていた食欲が一口飲み込んだ瞬間に復活するのだから、くろには本当に頭が上がらない。

(美味しい……)

 日々向上していくくろの生活能力に、無性に物悲しい感情に襲われる。
 自炊能力で負けてしまったら、本当に存在価値がなくなってしまうのではないか。

(お料理、風邪治ったらもうちょっと努力しよう)

 張り合う必要性は全くもってないのだが、小さいながらも存在するプライドが邪魔をしてしまう。
 半分ほど食べ終えたところで、決意を胸に咲里はそっとスプーンを置いた。もしかすると最後まで食べられるかもしれないと思ったのだが、やはり体調万全とまではいかないようだ。せっかく作ってくれたのに残してしまうことに、明確な罪悪感を感じる。

「ごちそうさまでした」

「もういいのか」

「うん、ありがとう。……ごめんね、残しちゃって」

 くしゃりと力なく微笑めば、当然のように笑みが返される。
 そんな些細なことに、どうしようもない幸福を感じた。

「あんたが謝る必要はない。……無理に食わせたのは、俺の方だしな」

 そう言って立ち上がると、くろは咲里の両肩に手をかけた。そのままそっと咲里の体を押し、ベッドへと横たえさせ、布団を掛ける。

「ゆっくり休んで、しっかり治してくれ」

 軽く布団の上から咲里の腹部を撫でる男の手付きに、なんだかお父さんみたいだな、という感想を抱く。咲里に父の記憶はほとんどないが、もしも父親という存在がいたのだとすれば、こんな感じなのではないかと思えたのだ。
 全力で否定されてしまいそうなので言葉にはしないが、体を撫でる腕に、大事にされていることを実感する。
 心地よさに流されるままに、目を閉じようとして。

「咲里」

 呼びかけに、咲里は寸前で瞼を押し開けていった。夏の陽射しを思わせる柔らかな微笑みと、視線がかち合う。

「何かして欲しいことがあったら、遠慮なく言って欲しい。……前にも言っただろう。あんたの望みは、俺が叶える。……そのために、ここにいる」

 満腹感と喋ったことによる疲労感から眠気に苛まれていく意識の中で、咲里は呆然とくろの顔を見つめていた。
 くろは、もっと頼って欲しいと言っていた。ならば――

「……じゃあ、一つだけ。お願いが、あるんだけど」

 躊躇いがちに口を開く咲里に、くろの瞳は「その言葉を待っていた」とばかりに輝きを増す。

「なんだ?」

 一体どんな無理難題を吹っかけてくるのかと期待しているかのようなくろの勢いに、咲里は乾いた笑みを浮かべる。
 くろには悪いが、そんなに大それた「お願い」をするつもりはない。
 いつも翻弄されている仕返しというわけではないが、少しだけわがままを言ってみたくなった。ただ、それだけだ。
 熱病に侵された体が、咲里を少しだけ横暴にさせる。

「えっと、……くろさえ良ければ、なんだけど。ちょっとだけ、犬の姿になってほしいな……、なんて」

 見上げた先、くろの動きが止まる。
 自分が飼い犬になるだなんて夢を見た手前、犬の姿のくろが少し恋しくなった。咲里からすれば、ただそれだけの理由の些末な願いのつもりだったのだが、途端歯切れを悪くするくろに冷静さを取り戻していく。
 以前――学校を消し炭にした日、咲里の前に戻ってきたくろは見慣れた片耳のない犬の姿をしていた。
 だから、本来の姿は犬の体であるのだし、あの形態に戻れないということはないと思ったのだが。

「もしかして、そんなに気軽に犬の姿にはなれない……とか?」

「いや、それは……、まあ……なれるが。……そんなことでいいのか?」

「えっと、ちょっと久しぶりに、犬の状態のくろを撫でたいなぁ、と思って……。あの、くろが嫌なら、無理にとは言わないんだけど」

「嫌というわけ、では。……この姿では不満なのか」

「そういうわけじゃ、なくて。今は、そういう気分っていうか。くろの毛、もふもふしてて、気持ちいいし……ちょっと、寒いから」

 両手をくろに対し差し向け、暗に抱きしめて眠りたい、とアピールしてみる。
 しばしの沈黙ののち腕を組み、くろは諦めたように溜息を吐いた。

「あんたが、それを望むなら」

 次に咲里が目を開いた時、そこに見慣れた仏頂面の姿はなく、代わりとばかりにベッドの下――男が立っていたはずの場所に、片耳の黒犬の姿があった。左耳のない、黒い犬だ。
 行儀よく足を揃え、機嫌を窺うようにして黙って咲里を見つめる犬の姿が、生前のくろの姿とぴったり重なる。
 今までだって、仏頂面の男が犬のくろと同一の存在であることは分かっていたはずだった。
 だが、いざこうして犬の姿を取るくろを目の当たりにすると、今更ながら「ああ、本当にくろは戻ってきてくれたのだ」と心の底から実感が沸いてくる。
 熱のせいで、涙もろくなっているのだろうか。
 咲里の目尻に、微かに涙が滲み出す。

「くろ」

 呼びかければ、黒い犬が腰を上げる。
 四つの足を器用に動かし、くろは身軽な動作で自然とベッドへとその身を乗り上げた。声はなく、足音もない。不気味なまでの静けさでもって、くろは器用に鼻先で布団をめくりあげると、病床の咲里の腕の中へと滑り込んできた。
 くろの背に、腕を回す。
 指先を掠める滑らかな毛の感触、呼吸の度上下する体に、深く息を吐きだしていく。感嘆の息を吐く咲里とは対照的に、されるがままになっているくろは無言ながらも不満そうに見えた。こうされるのは心外だとばかりに、半目で咲里を睨みつける。
 だが抵抗する気はないようで、しばらく撫で続けていると渋々といった様子で目を閉ざしていった。背を丸め、丁度胸元に来る形となっているくろの頭に額をつけ、咲里もくろに釣られるがままにその瞼を閉ざしていった。

 そのまま夢の淵へと落ちていこうとする中で、咲里の脳裏に先ほど見たおかしな夢の情景が過る。

(私とくろの立場が逆だったら、全部丸く収まったのかな)

 具体的には、誰も死ななくてもよかったのかもしれない。
 くろの言う通り、世界から隔絶された小さな家の中に囚われたまま、ただ飼い主の帰りを待つ。くろに養われるという点では、今と大して変わらない。ああ、でも……。

(そうすると、くろが働かなきゃダメなわけで)

 夢の中のくろは不思議な力こそは持ち合わせていなかったが、外見上は今咲里がよく知るくろの姿と相違なかった。

(会社とかで、……もてるんだろうな)

 世間には、咲里よりも外見内面ともに美しい女性など、それほど山のようにいる。それに、もしも夢の設定がそのまま現実になったとするのならば、咲里はただの犬なわけで。きっと、くろの中では飼い犬以上の存在にはなれないだろう。
 最悪の場合、くろと別の誰かの結婚を飼い犬として見届ける可能性だってあり得る。
 そこまで考えて咲里は目を閉じたまま、力なく首を横に振った。

(……今のままが、一番いい)

 くろの体に回した腕に、無意識に力がこもりだす。
 どれほどの屍を積み重ねたとしても、咲里はくろを独り占めしておきたかった。これまでも、これからも。

 眠りに完全に落ちる直前、咲里は瞼を開け、腕の中でじっと目を閉じているくろの姿を盗み見た。

 風邪を引いた時、人はおかしな夢を見る。
 馬鹿げた仮定の話ではあるが、もしも。もしも、犬であるくろが風邪を引いたとして、その時くろは、一体どんな夢を見るのだろう。
 そもそも生者ですらない彼は眠ることが――夢を見ることが出来るのだろうか?

 夢の際、ただでさえおかしくなっている思考回路が暴走する。
 暑いのに、寒い。寒いのに、熱い。
 ああ、でも、もしも夢を見ることが可能であるのならば――
 
 願わくば、その夢が幸福なものであらんことを。


*********


 咲里が心地よさそうな寝息を立て始めるのを、その目と耳で確認してから。鼻先で、くろは軽く咲里の肩をつついた。起こしてしまわないように、慎重に。幸いなことに、反応はない。
 主人が完全に夢の淵へ落ちていることを確認すると、くろは小さく息を吐いた。
 次の瞬間、少女の腕の中に収まっていたはずの黒犬は、見目麗しい人間の男へと姿を変えていた。
 好き勝手にしてくれたお返しだとでも言うように、今度はくろが眠る咲里の体へと腕を回す。

「咲里」

 戯れに、囁くように名を呼び、背を撫で、髪を梳(す)いたところで、腕の中の少女に起き出す気配は微塵もない。
 くろの胸に頬を摺り寄せ、縋るように男の寝巻を握りしめる少女の所作に、知らず笑みがこぼれ出た。

「……あんたは今、どんな夢を見てるんだろうな」

 零された言葉に反応はなく、ただ少女の呼吸音だけが優しく鼓膜を刺激する。

 不意に髪を梳いていた腕を止め、手の甲で咲里の頬に触れる。
 触れる肌は、温かいと形容するには些(いささ)か熱すぎる。
 枕元に放り出されていた濡れタオルに手を伸ばし、くろはそっと咲里の額にそれを乗せた。瞬間、気の抜けた笑みを漏らす咲里に苦笑する。
 反応から推察するに、悪夢を見てはいないらしい。

 ――生者は夢を見る。けれど、死者であるくろは眠ることはなく、すなわち夢を見ることはない。
 眠るようなフリをすることは出来るが、本来の休眠という意味にはあてはまらない。目を閉じ安らぐことに、これといった意味はないのだ。
 
 眼下の咲里の安らかな表情を眺め、くろはしばし思案する。
 いつもなら、眠る咲里の横でそれらしく眠ったように見せているが、今夜は無性にこのまま咲里の寝顔を眺めていたかった。

 夢など見られなくとも、くろは現状に十分過ぎるほど満足している。
 けれど。
 もしも夢を見られるのならばその時は。

 願わくば、愛する人と同じものであらんことを。




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