アフタードールズ

9.古谷裁縫店2

「お風呂沸いたわよ~」

 気の抜ける笑顔をした、紬が顔をだす。

「こいつなら心配いらない。ほら、風呂に入ってこい。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ。……さて、私はもう戻る。紬、お前も早く店番に戻れよ」
「はーい」

 入れ替わるような形で部屋に入ってきた紬は、着物の袖を口元に当て、あらあらと呑気な声を漏らした。

「相変わらず手際がいいわねぇ……。私も見習いたいわぁ」
「本当に、すごかったです。……あの、こういうことは、よくあるんですか?」
「ううん。怪我をした人形が来るのは日常茶飯事だけど、あんなにも酷い状態を見るのは私も初めてよ。本当、人形ってすごいわよねぇ。あぁ、まだ心臓がドキドキしているわ」

 心臓の上に手を当て、紬は到底驚いてはいなさそうな微笑を浮かべながら、小さく溜息を吐いて見せた。

「ここに来てずいぶん経つのだけれど、まだ慣れないわねぇ……」

 小さな声が喉から漏れる。
 もしや、彼女は――

「あ、そうだ。まだ名乗っていなかったわね。私は古谷紬(ふるやつむぎ)。それで、さっきまでここにいた、つっけんどんな女の子はロップ。言葉遣いは乱暴なんだけど根はいい子だから、あまり怖がらないであげてね。意外と繊細なんだから」

 クスリ、と笑みがこぼれてしまう。
 どうやら彼女がこの店の店主であるらしい。ロップの方がしっかりしているので彼女の方が店主かと思ったが、少しくらい上がのんびり屋な方が、案外経営は上手くいくのかもしれない。
 彼女の気の抜けた笑顔に、ようやく抜けていた心が戻ってきたような気がした。

「有村胡蝶(ありむらこちょう)です。私もその、人間で……」
「まぁ! やっぱりそうなのね!」

 両手を胸の前で握り締め、座り込んだままだった胡蝶の前に座り込んだ。

「人間と会うのは随分と久しぶりなの! あぁ! 嬉しい! ぜひとも仲良くしてちょうだいね!」

 紬の表情に更に親しみが混じる。
 小さく頷く。紬は小さくはにかんで見せた。胡蝶と同じ年頃だと思ったが、本当は彼女はもっと胡蝶より年上なのかもしれない。同い年の子と話しているというよりは、友達のお姉さんと話している感覚が近かった。

「ねぇ、胡蝶ちゃんはいつこの世界に来たの?」
「それが、今日来たばかりで……」
「まぁ! それは大変だったでしょう!? 私に出来ることならなんでも――」
「紬!」

 廊下の奥から腹立たしげなロップの怒号が響き渡った。大きく紬の肩が揺れる。この二人の力関係がいまひとつよく分からなかった。少なくとも、マリアやクリスのように問答無用で持ち主を信奉している様子はない。ロップは紬が黒いものを白だと言ったとしても、きっとはっきりとした口調で黒だと訂正できる。
 人形と主人というよりは、駄目な姉としっかり者の妹という構図が一番当てはまっている気がした。

「……ああもう。私ったら、夢中になるとつい我を忘れてしまって……。ごめんなさいねぇ」

 頰に手を当てた和風美人が憂いの帯びた顔で溜息を吐く。

「とんでもないです。紬さんのおかげで、気分が晴れました」

 少なくとも、あの化け物に会った時に感じた嫌悪感はかなり薄れていた。気持ちは落ち着きを取り戻し、心臓は穏やかなリズムを刻んでいる。

「それなら良かったぁ」

 胡蝶の微笑みに釣られ、紬にも笑顔が戻る。

「着替えはもう用意してあるから、ゆっくりしていらっしゃい。お風呂場はそこの角を曲がって二つ目の部屋よ。服はこっちで洗っておくから、適当に置いておいてちょうだい」
「色々とすみません……」
「いいのよぉ~。困った時はお互い様じゃない」

 笑いながら立ち上がり、着物姿の美少女は店の方へと消えていった。紬の足音が聞こえなくなったのを確認し、胡蝶も部屋を後にする。歩く度、床板が微かに軋む音がした。店先から、微かに二人の話し声が聞こえてくる。

「またお前はそうやって自分を見失ってだな」
「だからごめんなさいってばぁ~」

 全く悪いと思っていなさそうなトーンで、紬は呑気に笑っている。クスリと笑いを一つ零し、胡蝶はマリアの帽子とメガネを大切に胸に抱き、指示された通りに風呂場へと足を進めた。
 風呂場に置かれていたのは、ロップの纏っていたものに比べれば、比較的シンプルな薄桃色のワンピースだった。ロップのものよりあからさまではない、というだけで、ロリータファッションであることに間違いはないだろう。
 和服ではなく洋服を用意してくれたのは、紬なりの気遣いなのかもしれない。胡蝶としても、着物を一人で着られる自信はなかっただけに、こちらの方がありがたかった。
 胡蝶が風呂から上がった頃、薄い赤だった空は完全に朱に染まっていた。ほどよく温まった頬をタオルで拭いながら廊下へ続く扉を開けると、ちょうど紬が通りがかった。

「紬さん」
「あら、胡蝶ちゃん。……お湯加減はどうだった? 」
「あ、ちょうど良かったです」
「そう? それならよかったわ」

 笑みに笑みを返し、紬は上機嫌だ。久々に人間と会えたことが、相当嬉しいらしい。現に、胡蝶だって嬉しいのだ。人形だらけのこの世界で、自分と同じ境遇の人間にこうも簡単に出会えるとは思わなかった。

「それ、ロップのお下がりなんだけど、サイズは合ったみたいね。とっても似合ってるわよ」
「……あの、何から何まで本当にありがとうございます」
「いいのいいの。あぁ、そうだ。あなたに、お客様よ」

 きょとん、と首をかしげる胡蝶を、紬は小さく手招きした。もしかすると、マリアが追手を振り切り、ここを探し当ててくれたのかもしれない。心配させてしまった。帽子と服を汚してしまったこと、きちんと謝らなければ。
 タオルで軽く髪を拭い、黒髪を赤いリボンでツインテールにまとめ直す。

「それにしても、びっくりしたわぁ~」

 紬と二人、廊下を進んで行く。歩く度ギシギシと、小さく床板の軋む音がした。

「びっくりって、何がですか?」
「またまたぁ、とぼけちゃってぇ」

 のんびりと、紬が笑う。本当に身に覚えがなかった。

「人形って皆綺麗な顔をしているけれど、私、あんなに綺麗な人形は初めて見たかもしれない。もちろん、ロップが綺麗じゃないって言ってる訳じゃないけど、あの子は「綺麗」というよりも「かわいい系」じゃない?」
「……確かに」

 少々物騒なところもあるが、彼女は人形のようにかわいいらしい。本物の人形なのだから「人形のように」と形容するのもおかしな話だが、それ以上にどう形容すればいいのか、胡蝶にはそれ以上に的確な表現が思いつかなかった。

「胡蝶ちゃんの人形、本当に綺麗ねぇ……。よっぽど、大切にしていたのね」

 やはり、迎えに来たのはマリアのなのだろう。あんなにも美しい人は、胡蝶の知る世界のどこにも居はしなかった。

「ほら、お迎えよ」

 紬が店へ続く暖簾を押し上げる。
 勝手にいなくなってしまった謝罪を述べようとして、けれど、夕日を背に待っていたのは、マリアではなかった。

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