アフタードールズ

21.トロイメライ

 次に目を開いた時、胡蝶の前にクリスの姿はなかった。残されたのは甘やかな香りだけ。だがそれも、窓から吹き込む風に溶かされてしまう。すべては胡蝶の見た白昼夢のように、何も残らない。後に残るのは、青い炎の明かりだけだ。
 代わりとばかりに耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある感高い絶叫に、それを引き止める低い声。

「胡蝶ぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」
「うるさい静かにしろ!! 怪我人を起こしたらどうするつもりだこの阿呆!!」

 ふすまを開けると同時に飛び込んできた歌姫の姿に、胡蝶は自分でも気付かぬうちに胸を撫で下ろしていた。

「胡蝶! お前起きてい――」
「胡蝶胡蝶胡蝶胡蝶!!!」

 パッと顔に喜色を滲ませたロップの言葉を遮り、マリアが半ばダイブするような形で胡蝶を真正面から抱きしめる。気のせいではないデジャヴを感じながら、胡蝶は苦笑いを浮かべた。

「あぁ!! 本当に無事でよかった!」

 頬ずりをしきりに繰り返すマリアに、歌姫の面影はない。持ち主の安否だけを気にかける、一体の人形。

「マリア、苦しい……!」
「あぁ! ごめんなさい! ……安心したらつい」

 瞳に浮かんだ涙を拭いながらも、マリアはひまわりのように笑う。

「……紬を呼んでくる。こんなにも心配されるなんて、お前は本当に……呆れるほどにめでたいやつだ」

 そう言うロップの声も、微かに震えている。彼女も彼女なりに、胡蝶を心配してくれていたらしい。

「心配かけてごめんなさい。コンサートの準備で大変な時なのに……」
「そんなの胡蝶が気にする事じゃないわ! 悪いのはあなたを守れなかったコジローの大馬鹿なんだから」

 頰を膨らませたマリアがそっぽを向く。

「クリスと同じ事言ってる」

 その名を出した瞬間、マリアの動きが止まった。

「……クリスが、ここに来たの?」
「分からない。……現実だと思っていたけれど、もしかしたら、夢だったのかもしれない」
「そう……」

 小さく首を横に振った胡蝶に、マリアは複雑な表情を見せる。嫌な予感が確信に変わった。失ったものは二度と戻らない。ゆで卵から決して雛が出ないように、一度変化したものは元には戻らない。何もかも遅かった。クリスの訪問も、そして何より、胡蝶の決断も。
 珍しく難しい顔をするマリアに、胡蝶は身を乗り出す。
 ふすまを開け、紬と共にロップが戻ってきたのは、丁度その時だった。

「具合はどう?」
「おかげさまで、大丈夫そうです」
 
 軽く包帯の巻かれた足に力を入れてみる。微かに痛みはあるが、思っていたよりも滑らかに動く。これなら走ることは無理でも、すぐにでも歩けそうだった。

「これなら、コンサートも」
「駄目よ!!」
「駄目に決まっているだろう!」
「駄目よ~」

 三つの声が綺麗なまでに重なった。マリアとロップは身を乗り出し殺鬼迫った顔で、紬も穏やかな微笑みに珍しく怒りをにじませて。

「お医者様が三日間安静にって仰ってたんだから。それまで外出は禁止よ」
「そうよ、コンサートはこの一回限りってわけじゃないんだから」
「この女の言う通りだ。そもそも、あんな目にあって外出しようとするお前の性根はどうなっているんだ!? 」

 そこまで責めなくてもいいじゃないかと胡蝶は縮こまってしまう。これほどまでに、人に心配されたことが今まであっただろうか。

「で、でも」
「「でも」も「だって」もなし!」

 またしても女性陣の三重奏が響き渡る。誰か一人くらい味方をしてくれないだろうかと思っていたところに、最後の希望であるコジローが帰ってきた。希望は薄そうだが、言わないよりはマシだ。

「コジロー、その、明日は」
「絶対にダメだ」

 最後まで聞くことなく綺麗に予想通りの回答を険しい声で返してきたコジローに、胡蝶は内心「そうだよねぇ……」と思いながら引き攣った笑みを浮かべることしかできなかった。

 胡蝶がいくら駄々を捏ねたところで、コジローは全く首を縦に振ろうとしない。10分ほど「行きたい」「駄目だ」の押し問答を繰り返したところで、胡蝶はようやくマリアのコンサートに行くことを諦めた。
 だが次がいつになるのかが分からないのなら、今回の公演でマリアの姿を目にしたかった。こんなことならコジローの後など付けなければよかったのかもしれない。だが、結果的にはこれでよかったのだ。人間の業の深さを、胡蝶たち持ち主側は決して忘れてはいけない。

「コジローくんのこと、責めないであげてね」

 胡蝶が元気なことを確認すると、話があるのだと、マリアとロップを連れて、コジローは部屋を後にした。人形たちの作戦会議に取り残された紬は、胡蝶のためにリンゴの皮をむきながら、そんな言葉を零した。表情は柔らかく、伏せられた睫毛が時折愛らしく揺れる。

「彼、昨日からずっと寝てないのよ。仕事で呼び出されるまではずっと胡蝶ちゃんの側についてたんだから」

 マリアのコンサートに行けないことは残念だが、それでコジローを責めるのはお門違いだろう。悪いのは全て胡蝶で、コジローは十分過ぎるほどに頑張ってくれた。

「コジローが頑張ってくれてるのは、ちゃんと分かってるつもり……です」
「そう? なら、大丈夫。コジローくんにも、胡蝶ちゃんの気持ちは伝わってると思うわよ。……はい、うさぎさん完成!」

 差し出された真っ白な皿の上には、可愛らしいうさぎ切りの林檎達が並べ立てられていた。意図せず感嘆の声を漏らした胡蝶に、紬は満足気だ。
 林檎の一つを手に取り、口に運ぶ。程よい酸味が胡蝶の喉元を潤していった。
 襖越しに消えていった人形達の方を見ても、何も聞こえて気はしない。人形達は、胡蝶達にきっと何か大事なことを伝えずにいる。それが、胡蝶が昨日出会った王に関わることなのかは、未だ明らかではない。ただ、どこかで何か大変なことが起ころうとしていることだけは確かだった。

「少しだけ、胡蝶と二人きりにしてもらっても構わないかしら」

 数分後、申し訳なさそうにマリアがふすまの隙間から顔をのぞかせた。りんごの皿を胡蝶に手渡し、マリアと入れ替わるような形で紬が部屋を後にする。
 彼女が座っていた位置にマリアは正座し、華やかな笑みを浮かべた。

「コンサートには連れて行ってあげられないけど……。胡蝶さえよければ、あなたのために一曲歌わせて頂戴」

 胸元の蝶のブローチに手を当て、歌姫は悠然と微笑んでみせる。願っても無い申し出に、沈みがちだった胡蝶の気分は少しずつ上昇していった。

「いいの?」

「勿論よ。そうねぇ、お題は紅茶一杯で勘弁してあげる。コンサート終わりの歌姫を存分に労って頂戴ね」

 茶目っ気たっぷりに片方の目を目配せした歌姫に、胡蝶は小さく吹き出した。

「ミルク多め……だったよね」
「ご名答」

 設定を口すれば、マリアは肩をすくめてを叩く。そのあと、二人して馬鹿みたいに笑った。窓から差し込む日差しが、いつも以上に柔らかく感じた。
 一通り笑い終わった後で、マリアは座ったまま腹部に腕を当て、息を吸い込む。
 歌姫の口から流れ出たのは、胡蝶が聞いたことのない曲だった。日本語でも英語でもない、どこの国の歌なのか分からない、不思議な曲。それなのに、どこか懐かしい。暖かさを感じる、柔らかく、確かな愛情に満ちた声だった。
 言葉は分からない。それでも、彼女の歌が持ち主(こちょう)への想いに満ちている事だけはよく分かった。
 彼女がこれ程までにもてはやされる理由が、ようやく分かった気がした。全てを許してしまいそうな慈悲に溢れた歌声、それでいて堂々とした自身に満ちた声。踊るように溢れ出る、彼女の魂。
 彼女は紛れもない偶像(アイドル)だった。人形達を惹きつけてやまない、彼らの理想の姿。

 短い曲だったと思う。ほんの一瞬の出来事。
 ただ歌を聴かせてもらっただけ。それだけなのに、まざまざと思い知らされた。
 彼女は、紛れもなくスターだ。そう思わせるだけのオーラがマリアにはあった。

「とても、素敵だった」

 自然と拍手がこぼれ出る。歌姫は先程までの気迫は何処へやら、恥ずかしそうに数度頰を指で掻いた。

「自分でやっておいてなんだけど、かなり……やり辛いというか」
「そんなことない。とっても綺麗だった」

 満面の笑みを見せた主人に、マリアは破顔する。

「う、歌姫のソロコンサートは高くつくんだからね」
「うん、分かってる」

 和やかな雰囲気が辺りを満たす。

「コンサート、頑張ってね。今度は絶対に観に行くから」
「……もう無茶はしないって約束してくれる? 」

 差し出された小指に、胡蝶は自身の指を重ねた。

「うん、約束する」
「紅茶、覚えておいてね。コンサートが終わったらすぐに駆けつけるんだから」
「……分かった。楽しみに待ってる」

 一瞬、マリアの顔に影が掛かる。クリスの名を出した時と、同じ顔。
 だが、すぐにマリアは歌姫の顔に戻ってしまう。太陽のような微笑みで、胡蝶を始めて出迎えてくれたあの日のように、笑う。

「さて、じゃあ私はそろそろ行くわ。……気を使わせちゃって悪かったわね」

 彼女の視線が閉ざされた襖の向こうへ向けられる。恐る恐る開けられた襖の向こうで、三人は聞き耳を立てていたようだった。

「私感動しちゃった~」
「歌姫の名は伊達ではなかったという訳だな」

 呑気な声を漏らし、女子二名が歌姫に対し拍手を送る。
「今日もリハーサルか? 」

 対するコジローはいつもと何も変わらない。彼はマリアの歌声を聴き慣れているようだった。

「おっしゃる通りよ。じゃあね、胡蝶。……明日は、このお店にも届くくらいの大音量でお届けしちゃうんだから」

 茶目っ気たっぷりにウインクし、マリアは部屋を後にした。

「クロには、言わなくて良かったのか」
「あの子は繊細なんだから。……黙っててやった方が幸せよ」

 玄関先でサングラスとカヌティエを目深に被りながら、見送りに来たコジローに低い声を零す。ロップと紬はここにはいない。二人には胡蝶の側に付いてもらっている。

「やっぱり、俺も行った方が」
「あなたは胡蝶の側にいてやって頂戴」

 コジローの言葉を遮る形で、少女の細い指が男の胸を突く。

「この私を誰だと思ってるの?」

 自信に満ちた勝気な笑みが、男を見上げる。

「私は絶対に負けない。胡蝶が必要としてくれる限りは……ね? ほら、そんな顔しないの。あなた、それでも胡蝶の騎士? 」
「……そうだったな」
「分かればよろしい。……それじゃ、胡蝶のことは頼んだわよ。今回は許してあげるけど、次に胡蝶に何かあったら、今度こそ一生呪ってやるんだから」

 そんな物騒な言葉を残し、歌姫は太陽の光の下に消えていった。
 様々な思惑など知らないとばかりに、太陽は沈み、時は流れゆく。

 そしてとうとう、コンサート当日がやってきた。

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