アフタードールズ

20.狐と王子様


 コジローが心配していたよりも、胡蝶の怪我の度合いは軽かった。
 その日の晩に呼び寄せた医者の人形の話によると、これからの日常生活に支障が出るような重度のものではなく、足止めのために施されただけの軽度なもの。
 立てなくなったのも精神的な影響だったらしく、精神が落ち着きを取り戻せばすぐにでも歩けるようになるらしい。
 それでも、最低三日は安静。生憎、胡蝶が楽しみにしていたマリアのコンサートへの参加は断念せざるを得ない。
 ぐっすりと眠る胡蝶の寝顔を、布団の横へと置かれた座布団の上あぐらをかきながら見守る。一夜明けても、胡蝶は一度も目を覚まさずに、ぐっすりと眠り続けている。このまま眠っていた方が、胡蝶もきっと楽だろう。

 無理に起こそうとは思わなかった。
 ただでさえ酷い目にあったというのに、王にも出くわしてしまったのだ。彼女の精神的なショックは、人形であるコジローには計り知れない。
 天井から吊るされた青色の炎が、うっすらと二人の姿を藍色に染め上げていた。

 翌朝、報告も兼ね訪れた、武器屋でもあり、騎士達の情報交換の場であるベントゥーラの店の被害も、表だけで大したことはなかった。裏にあった亡霊(ゴースト)に関する書類も、予備の弾も、備蓄された武器も全て無事。
「店の営業にゃあ影響はねぇけどヨォ! 俺の貴重なコレクションがアァァァ!!!」
 と絶叫していたのは、聞かなかったことにする。

 王に関する報告を聞いたベントゥーラは、渋い顔をしていた。そのすぐ後に、胡蝶の怪我が治るまでの休業を宣言するのは少々心が痛んだが、コジローにも譲れないものがある。

「今は少しでも人手が欲しいんだがなぁ。……亡霊達の動きがただでさえ活発な中、明日には歌姫殿のコンサートもあることだし」

 マリアには、他の人形にはない魅力がある。それは、同じ胡蝶の人形だあるコジロー達では成し得ないものだ。あんなにも自分の在り方に自信を持っている人間を、少なくともコジローは見たことがない。
 彼女は人形達の憧れ、人形にとっての理想像。
 彼女の歌には、人形達を惹きつける奇怪な魔力がある。それは、亡霊(ゴースト)とて例外ではない。普段ならば、亡霊達が光の下に姿をあらわすことは極稀だ。だが、マリアのコンサートの日だけは別。夜に輝く街頭に群がる虫のように、どこからともなく亡霊が湧き出してくる。
 騎士(キャバリアー)にとっても大仕事だ。

「警備、足りてないのか」
「いや、十分っちゃ十分なんだが……。レンブラントのやつは、すぐには動けないだろうし……」
「だろうな」

 レンブラントは人々を助ける騎士(キャバリアー)であると同時に、誰よりもマリアを守る義務がある。人形達の憧れが撃ち落とされた日には、それこそ暴動が起きかねない。

「……でも悪いな。俺はやっぱり、お嬢の側にいることにする」

 クロもマリアのコンサートの手伝いに回ってしまっており、クリスは、よく分からない。胡蝶を除けば一番長い付き合いだが、クリスのことだけは未だによく分からない。それに、どうも彼には毛嫌いされている節がある。そんな状況で、今胡蝶の側を離れることは得策ではないと思った。個人的に、胡蝶の側にいたかったと言うのも勿論あるが。
 コジローはポケットからおもむろに取り出した煙草を口に咥えながら、溜息を吐いた。

「少し、気に掛ることもあるしな」

 ベントゥーラはただ黙って煙草の煙を吸い込むだけで、それ以上、詮索しようとはしなかった。

  *  *  *  *


 胡蝶が目を覚ました時、最初に鼻をついたのは、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りだった。
 それから、バニラエッセンス。胸焼けがしそうな程の、甘い甘い芳香。クリスの家で嗅いだものと、同じ匂い。

「目が覚めましたか?」

 本来ここにいる筈のない男。それが座布団の上、当然のように鎮座している。
 キャラメル色の長い髪をポニーテールにした王子様のような男。

「かわいそうに。……だから、あの男の側にいるのは良くないと忠告したのに」

 眉を下げ、わざとらしく悲しんで見せる。

「どうして、クリスが」
「いけませんか?」

 ゆっくりと煎餅布団から体を起こそうとする胡蝶に腕を貸しながら、おどけたように笑ってみせる。喉の奥を震わせ、低い声を漏らす。

「人形が、主人のことを気にかけては」

 穏やかな微笑みだ。解かれ、ぐしゃぐしゃの胡蝶髪を手でほぐしながら、胡蝶の顔色をうかがっている。匂いはクリスの家で嗅いだものと同一だが、ここは紛れもなく紬とロップの家だった。それならば、クリスを上げたのも彼女達と言うことになる。
 ロップなら絶対に引き入れないだろうが、おおらかな紬なら彼を家に上げることもあるかもしれない。コジローは、どうだろうか。
 そういえば、クリスとコジローが直接対峙しているのを、見たことがなかったような気がする。

「具合の方は?」
「大丈夫、ほんの少し怪我をしただけだから」
「……私なら、あなたを傷付けさせはしない。それこそ指一本触れさせたりしないのに」

 クリスは胡蝶に対しては、もう怒っていないようだった。だが、明確な怒りを抱いている。胡蝶を守り切れなかった、彼曰く「汚れ仕事」である男に。

「コジローは悪くなんか」
「いいえ、すべてはあの男のせいです」

 胡蝶の両手を取り、優しく包み込む。黒くつぶらな瞳が、まっすぐに胡蝶を射抜いていた。

「あなたが騒動に巻き込まれたのも、怪我をしたのも、全てあの男が悪い。コジローは、本物の騎士になんか決して成れはしない、偽物の正義の味方です。それなのに、あなたはコジローの肩ばかり持つ。……あの狼のどこがそんなにいいんですか? ……昔から、あなたはそうでしたよね。コジローコジローと。結局はあの狼のことばかり」

 最初は分からなかったクリスの異常なまでの、コジローへの嫌悪感。対抗心。小梅との遭逢を果たした今なら少しだけ、分かる気がした。

「私の方が、あの男の何倍も、いえ、誰よりもあなたを愛していると言うのに」

 わざとらしいまでに芝居掛かったポーズ。だが、彼の言葉はきっと本心だ。
 胡蝶を大切に思ってくれている気持ちは十二分に伝わっている。
 ただその愛情が、少しばかり重いだけで。

「私も、クリスのことを大事に思ってる」

 毛を逆立てている狐の頭に手を置き、胡蝶は人形にするようにクリスの頭をそっと撫でた。今までのクリスへの行いを、少しばかり改める必要があると感じていた。
 あの事件で学んだことがある。絶対に人形達を拒まないし、忘れない。ずっと、家族として大切にしていく。忘れ去られるのは、寂しい。いらないと言われるよりも、ずっと。拒まれることは、それよりずっと辛い。一番自分が恐れてたことを、胡蝶は今までクリスに対して強いていた。

「ねぇ、クリス。確かに私は怖かったけど、結果的にはこれでよかったんじゃないかって思えるの」

 微笑んだまま言う胡蝶に、されるがままになっていた人形はキョトン目を数度瞬いた。

「今まで冷たくしてごめんなさい。あなたの気持ちを、私は今まで踏みにじってたと思う。……本当に、ごめんなさい」

 過激だが、クリスの愛情は確かに本物だ。

「あなたのこと、私も愛してる。拒んだりしない。絶対に、忘れたりなんかしない」

 胡蝶の頰に手を当て、狐の人形は柔らかく笑んだ。ただ、口調はひどく鋭い。どこか責める色を含んだ黒い目に、胡蝶は時が止まったかのような錯覚を覚えた。
 酷く、デジャヴを感じる。燃え上がりそうな程に熱を秘めた黒い瞳、胡蝶へと向けられる、真っ直ぐだが同時に酷く歪んだ愛情の片鱗。それは、あの時見た小梅や、仮面の男のそれに酷似していた。

「私とあなたの「愛してる」は、似ているようで全くの別物ですよ」

 ゾッとするほどに、美しい微笑み。物騒な熱を宿した瞳に、駆け抜ける蟻走(ぎそう)感。耳元に寄せられた唇が、甘美な毒を吐いていく。

「胡蝶。あなたは誰よりも理想的なご主人様ですが、同時に誰よりも残酷な人だ」
「え……」

 心臓の鼓動が脈を増す。

「私はただ、あなたの王子様になりたかっただけなのに」

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